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仕立て屋の女


ある人はこの作品を評して「印象派の絵のようだ」と言った。僕はフェルメールの絵のようだと思った。構図がフェルメール的だからだろうか?鮮やかな色彩から王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の映画を連想したりもした。どれも的を得ていると思う。

「仕立て屋の女」は中国・新疆ウイグル自治区のカシュガル旧市街で撮影したものだ。午後の遅い時間、仕立て屋のアトリエには、木枠の窓から柔らかな秋の光が差し込んでいた。偶然与えられたにしてはあまりにも美しすぎる舞台。こういうのを僕は「神様がくれたプレゼント」と呼んでいる。けれども、プレゼントにばかり頼るわけにはいかない。というわけで僕は多少の演出を加えた。プロの女優でもモデルでもなかったけれど、彼女は上手に主人公を演じてくれた。出来上がった作品から何を感じるかということは見る方々の想像力に委ねたいと思う。


「真実を写す」とは書くものの写真の表現方法というのはもちろんそれだけではない。写真という静止画を用いて何かを創作し表現するという方法論においては、「真実」どころかもはや「写す」という言葉さえ不条理に思えてくる。さらにいえば、デジタル技術の発達と共に「写真=静止画」という概念までも怪しくなってきた。やがて映画と写真の境目はなくなり、もう一方の境界線では写真と絵画との境目がぼやけ始める。芸術はますますシームレスになって行くだろう。

そんな中で「写真とはこういうものだ」という既成概念に固執し「まずカメラありき」というところからスタートしてしまうと袋小路に追い込まれる。むしろ逆がよい。頭の中で漠然と作りたいイメージを思い描けさえすれば、それを表現する手段は面白いようにリストアップされる時代だからだ。その結果出来上がった作品が「写真」「映画」「絵画」どの範疇に分類されるかはそれほど重要ではない。


なんだか息が詰まるようなご時世だが、こと「芸術表現の多様性」に関しては、この時代に生まれたことを僕は幸運だと思っている。


2006年11月記



今日の一枚
” 仕立て屋の女 ” 中国・新疆ウイグル自治区・カシュガル 2006年


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