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彼の歌がオアシスの街に流れていった


「顔」は僕の写真の重要な要素だ。中国の西の端、新疆ウイグル自治区のカシュガルに行けばおそらく、今まで自分が見たこともない不思議な顔に出会えるだろう。そういう確信は旅立つ前から頭の中にあった。そして実際にカシュガル行ってみると、予想以上に人々の顔が多種多様で「よしよし」と口元から思わず笑みがこぼれてしまった。


けれども、橋の上にいる彼の顔を初めて見たときには、正直、ドキッとした。「直視してはいけないような感じ」とでも言おうか。
彼はいつもその場所で物乞いをしていた。隣には母親と思われる老婆が自分の前に箱を置いて、やはりお金を恵んでもらっていた。正確には彼は「物乞い」ではない。なぜならば、手にタンバリンを持ち、ほとんど歯のない口で歌を口ずさんでいたからだ。民謡とも即興ともとれる歌を彼は唸るような声で歌っていた。

いつしか、僕は橋の上を通りかかる度に彼の隣で演奏を聴くようになった。橋の欄干にもたれてシルクロードのオアシスの風景を眺める。初秋の陽射しが、橋の下をチョロチョロ流れる川にキラキラと反射している。風景の中に彼の歌がゆっくりと溶け込んで行く。聴き終わると僕は僅かばかりの紙幣を紙箱の中に入れた。

僕は彼に親近感のようなものを持つようになった。あるいは「手が使えるからタンバリンを叩き、口が動き声が出るから歌を歌って日銭を稼ぐ」という彼の「生に対する直向さ」に強く惹きつけられたのかもしれない。生きてゆくのは大変なこと。苦難の連続だ。しかし、彼はそんなこと考えたこともないように実に飄々としている。演奏が終わるとすぐに箱に投げ込まれた紙幣の大きさを手探りで測った。(彼は目も不自由なのかもしれない)そして、それが小さな紙幣だと解るとひどくがっかりするのだった。


何らかのアクシデントによって顔の形が変わってしまう前、彼はいったいどんな顔をしていたのだろう?「前の顔」と「現在の顔」彼は一度の人生で2つの顔を持った。不思議なもので、彼の昔の顔を思い浮かべれば浮かべるほど、僕は今を生きている彼の現在の顔の方に威厳を感じるようになった。


2006年11月記



今日の一枚
”ストリート・ミュージシャン ” 中国・新疆ウイグル自治区・カシュガル 2006年




fumikatz osada photographie