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見せて!


「見せて!」写真を撮った後、子供たちが駆け寄ってくる。そして、カメラの裏側にモニターがないとわかると、まず不思議な顔をして、その後ひどくがっかりした表情になる。その度に「かさ張る」というのを理由にコンパクトデジカメを日本に置いてきたことを僕は後悔した。その表情を見るのが忍びなくて、僕は事前に「デジカメじゃないよ。ほら、モニター無いでしょ?」とモデルになる人にカメラの背中を見せてから撮るようになった。それがいかにバカげた前置きかは解っているつもりだが仕方がない。

いまどきシルクロードの辺境の地でもカメラといえばデジカメなのだ。大人でさえも、さっき撮られた自分が映っているモニターが 無いと不思議な顔をしてファインダーの中を覗き込んだりする。「見えないよ、見えないよ」といっているから「そんなことは無いよ。きちんと向こう側が見えるだろう」と答えたが、どうやら彼らはさっき撮ってもらった自分の像がファインダーの中に見えないよ、と言っているらしい。もちろん、そんなうまい仕掛けがあるわけない。だいたい、君たちはフィルムのカメラを知っているくせにっ。


ポートレイト作品というのは撮り手とモデルの共同制作物だ。だから、それが商業的な大プロジェクトでも極めて私的な写真でも、出来上がった作品をモデルに渡すというのは、少なくとも写真家として最低限の「筋」のような気がする。自分の場合は2度同じ場所を訪れ、再訪した際にプリントを手渡すことにしている。幸いにも作品を渡すとみなすごく喜んでくれる。半信半疑で被写体になってくれた人が作品を見ると心を開いてくれたりする。「撮ってあげてくれ」と友人を紹介する人もいる。お金を払うという人も、ぜひウチに泊まっていって欲しいという人もいる。それは写真家冥利に尽きることだ。しかし、こうして写真を手渡せる人はほんの僅か。残念ながらほとんどの場合は撮りっぱなしと言う状態だ。

おそらく、シルクロードの街に暮らす人たちも、自分でデジカメを所有しているわけではないのだろう。観光客がたくさん訪れて彼らのスナップをデジカメで撮る。観光客は「こんな感じですー」とモニターを彼らに見せる。かくして、彼らにとってはそれがいまどきの写真撮影の常識となるわけだ。モニターをチラッと見せてそれで「おしまい」というのも何だか味気ない感じがするが、フィルムカメラで撮りっぱなしにするよりは遥かにマシではないだろうか。

それでは「自分の作品づくりのために今すぐデジカメが必要か?」と問われれば、それは全く別の話だ。出来上がってくる作品の方が僕には重要であって機材は後からついてくるものなのだ。今現在は必要ない。でもある日、作品作りにどうしてもデジカ メが必要になったら、突然「デジタルの人」になってしまうかもしれない。「ノスタルジックな銀塩写真へのこだわり」は全く持っていない。だいたい、フィルムとデジタルとの融合なくして僕の作品は生まれて来なかった。そして、それは自分の作品の「色」だからひとつのスタイルとして極めたいという思いもある。


カシュガルのオヤジさんが僕に携帯電話を見せてくれた。「これ、日本製だよ。パナソニック」ほうほう、なるほど。携帯電話もすごい勢いで普及しているんだな。早速、携帯付属のカメラで写真を撮ってもらった。「見せて!」と僕はオヤジさんの元に駆け寄る。いまどき当然の行動パターンである。



さて、それから2年がたった。今、僕の傍らにはデジタル一眼レフが大きな顔で鎮座している。デジカメはすんなりと僕の生活の中に入ってきた。そして僕は当たり前のように「こんな感じです」な人たちの仲間入りをした。


2006年11月記



今日の一枚
” ポートレイト ” 中国・新疆ウイグル自治区・カシュガル 2006年


 合作の丘




fumikatz osada photographie