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ブロンディー


ここはセネガルのカオラックという町。僕は人影のない昼下がりの通りで宿を探していた。


やがて、二階建ての古いホテルを見つける。1階はレストランのようだ。受付けは1階だろうと思い木製のドアを開けた。その瞬間、「ざっ」と店の中の客たちが一斉にこちらを見た。「あっ」僕は思わず声を上げてしまった。

閑散とした通りとは対照的に店内は満席。これまた表とは対照的な薄暗い店の中で、客たちは金属製の皿から何やらつまみ無言で食べていた。突然、扉が開いて外から強烈な光が差しこみ、そこに見慣れない東洋人が立っていたのだ。僕もギョッとしたが彼らも驚いたに違いない。

見開いた眼と眼が合い、彼らの食事の手が一瞬止まった。しかしすぐに、まるで何事も無かったかのように、彼らは口に飯を運び始めた。店内は驚くほど静かで、天井のファンだけがヒュンヒュンと音を鳴らしながら、食物と体臭の入り混じった生暖かい空気をかき混ぜていた。


「眼に焼きつくような瞬間」というのは、誰しも経験したことがあるはずだ。「眼に焼きつく」というほど大げさではなくとも、「あっ」と思う光景には日常かなりの頻度で出会うのではないだろうか。そういう瞬間を写真に焼き付けたいという願望を持っている。しかし、その時にカメラを手にしていてその一瞬が作品になるのは稀である。

例えば、カオラックの食堂の扉を開け、客全員と眼があってギョッとした瞬間にシャッターを押せたらどうだろう。写真を見た人は僕と同じ驚きを味わえるのだろうか?しかし、現実的にその瞬間を写真に残すことは不可能なのだ。扉の向こうに何があるかなんて誰も予測できないのだから。


朝早く、乗り合いバスがセネガルの小さな村の停留所に止まる。トラックの荷台に簡単な屋根をつけただけの質素なバスだ。15分ほどの停車中、僕は車窓から外をぼんやり眺めていた。向かいには田舎町の小さなガソリンスタンド。

やがて、砂埃をあげながらピカピカの4WDが入ってくる。給油機の前に車が止まると運転席から白人の男が降りてきた。すぐに小屋から年老いた給油係が出てくる。

油のシミが浮いた砂のうえで、男が給油係と言葉を交わす。おそらく油種と分量を告げたのだろう。ノズルが給油口に差し込まれ、給油係は男と話を始める。やがて、暇をもてあました白人の女が助手席から出てくる。女の髪はブロンドでサングラスをかけ、綺麗な服を着ている。腕組みをしながら男の傍らに立つ。

すかさず、僕のバスのところにいた物売りの少年が女の所に駆け寄る。バスの側にいたときにはわからなかったが、少年のシャツにはところどころ穴が開いていた。首からぶら下げた箱の中から、次から次へと商品を出して女に見せる。女は一瞥して首を振る。暫く食い下がっていたがやがて少年は諦めた。

間を置かずすぐに、別の少年が駆け寄る。胸に空き缶を抱えている。女に小銭を恵んでくれと言っているようだ。ブロンドの女はさっきと同じように首を振った。スタンドの給油係が「あっちへ行きなさい」と少年をたしなめる。少年は立ち去る。すると、また別の子供がやって来る・・・

そういったシーンが朝日に照らされた黄金色の風景のなかで繰り広げられる。まるでE・ホッパーの風景画みたいだ。(彼の描いたのはアメリカの日常だが)僕は急いでカメラを探す。「しまった!満員のバスに乗るために荷物は全部屋根の上だ」やれやれ、いつもこんな具合だ。銘シーンはこうして垂れ流しされる(笑)


こういうことを文章で書いていると、なんだか写真家として劣等感にさいなまれて来る。まるで「すごくデカい魚を釣り損なった」と話しているみたいだ。
こういったシーンを写真に写しこむには、予測して待つということも大切だろう。実際、今まで多くの作品を僕は「待つ」ことによって作り上げてきた。「演じてもらう」という方法もあるだろう。台本を作って演じてもらえばシーンを再現できる。映画のような写真作品をいつか撮ってみたいという願望もある。僕には映画(動画)への憧れがあるのかもしれない。つまりここで言いたいのは、千載一遇のチャンスをものにするばかりが写真のスタイルではないということだ。


ダカールの映画館の前、昼飯の包みを手に少年が悩んでいる。今晩、どの映画を観ようか?(幸運にも今僕はカメラを手にしている)少年よ安心してくれ、僕のチョイスも「ブロンディー」だ。


2006年8月記



今日の一枚
” ユニット4シネマ ” セネガル・ダカール 2003年


二度と出会うことのない人々・・・




fumikatz osada photographie