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キフヌ島と竹富島


キフヌ島は僕に竹富島を思い起こさせた。住民の生活様式そのものが文化財になり、観光資源になっているところが良く似ている。こういう「行動展示タイプ」の観光地というのはともすると「作り物感」が漂ってしまう。訪れた人の目にはどこまでが「素」でどこからが「サービス」なのかわからなくなるからだ。冷めた見方をするのは自分だけかと思っていたが、同じようなことを思っている旅行者もいるようだ。「ソ連製のクラシックなサイドカーは庭に止まったまま動かないんだよな」「もしかしたら、観光客向けのサービスで展示してあるだけでは?」うーん、そう言われるとそんな気もしてくるね(笑)しかし、庭にサイドカーがないよりはあったほうがいい。もしそれがサービスだとしたら旅人の気持ちがよく解っている。

しかし、別の見方をするとキフヌ島の「行動展示」はサービスではなくて本物の「素」なんじゃないかと思う節がある。キフヌの観光シーズンは6月から9月の僅か4ヶ月。果たして島の人たちはシーズンオフになるとスカーフもストライプのスカートを脱ぎ去り「ふぅ」と、ひと仕事終えた後のため息を漏らすだろうか?おそらくそんなことはない。それを演じきったらブロードウェイの役者だ。たぶん、僕がキフヌで見たのは素のままの生活なのだ。キフヌのマダムたちは夏の観光シーズンが終わっても、スカーフをかぶってストライプのスカートを履き自転車に乗っているのである。同じように竹富島の人々も。

だだし、両方とも伝統的生活様式や景観保全のために様々な決まりごとがあるのかもしれない。竹富の石垣付き民家も、キフヌの木造家屋も、乱開発でモダンなリゾートホテルに建てかえられてしまったら、どこにでもある観光地になってしまう。おそらく僕は旅の目的地に選ばなかっただろう。
ゴミ1つないほどの環境が守られ、平穏で、毎日訪れる新しい訪問者を笑顔で迎え入れ、自分たちの素のままの姿をさらけ出すというのは、住民にとって決して容易いことではないはず。これって住民のコミュニティーに対する誇りに起因するのかも。そうだ、僕はキフヌや竹富のコミュニティーに浸かりに行ったのだ。そう考えると全てがしっくり納まる。


もちろん、キフヌ島に数日滞在しただけではわからないこともたくさんある。例えば、過疎の問題や島外からの移住者にとってオープンか否かということ。世の東西を問わず地方にはありそうな問題だ。
しかし、キフヌ島の家々を見ると辺境の地の寂れた感じは全くない。木造家屋はみな綺麗に改修されてむしろ生活は豊かな感じさえする。それではこの島の人たちは何を生業にしているのだろうか?島の主産業は今も漁業なのか?それとも林業なのか?できればもっと長く滞在して住民に話を聞きたいところだ。



2016年7月記



今日の一枚
” 自転車に乗るキフヌマダム ” エストニア・キフヌ島 2016年




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