<< magazine top >>








ボレ空港の出稼ぎ娘~消えゆく日本 その2


エチオピアのどこへ行っても「チャイナ、チャイナ」と呼ばれた。子供達は「ハランジョ、ハランジョ」といって寄って来る。「ハランジョ」とは「外人」という意味だ。前にも書いたとおり、彼らは親しみを込めて呼んでいるわけで悪い気分はしない。むしろそうやってかまってもらえるのは嬉しい。


けれども、エチオピア北部の町ゴンダールは少し雰囲気が違った。ゴンダールはこの国屈指の観光地。エチオピア正教の由緒ある教会や、古城などがある。したがって外国人慣れしている人が非常に多かった。「ジャパニーズ、コンニチハ」と愛想よく寄って来るのはよいが、親切だと思ってついて行くと最後にお金を要求された。
ある意味こちらが世界の観光地での標準パターンかもしれないが、「チャイナ」と呼ばれるより遥かに疲れる。一日中そんな感じだと少々うんざりしてくる。そうすると、僕はどこか一人になれる場所で息を抜くのだった。キューバのときは教会セネガルの場合は近所の丘、そしてゴンダールでの僕のサンクチュアリはビアガーデンだった。


そう、その晩ビアガーデンの椅子に座って僕は塞ぎ込んでビールを飲んでいた。すると隣の椅子に若い男が来た。ハランジョがずっと無言でビールを飲んでいることに居心地の悪さを覚えたのだろう。彼は僕に話しかけてきた。「またガイドだと厄介だな」と半ば警戒しつつも徐々に打ち解けていった。ガイドではなく彼が地元に住む電気工事の技術者だとわかったからだ。
僕は今までエチオピアで体験したことを順を追って説明し、その上でゴンダールの人たちは外国人に慣れていて、比較的生活も豊かな気がするとの印象を話した。


男は興味深げに僕の話を聞いた後でこう言った。「この辺の人たちは働かずに海外からの仕送りで生活しているんだよ」海外から母国への仕送りで成り立っていた経済というのはどこかで聞いた覚えがある。そうだベトナムだ。かつてベトナムの高度経済成長のバックアップは海外に出て行ったベトナム人たちの母国への仕送りだった。彼らの行き先はオーストラリアやアメリカ。したがって僕は、エチオピアの場合の「海外からの送金」というのも欧米諸国に移住したエチオピア人からだと思っていた。
そこで僕は彼に尋ねた「国を出て欧米で金を稼ぎたいと思う?」「う~ん・・・」彼は口ごもった。その気持ちはよく解った。現在のエチオピア経済はいわばバブルだからである。行き詰まっている欧米に出て行くよりも、伸び代がまだあるエチオピアにいたほうが幸せになれそうだ。


ところがエチオピア最終日、日本に発つ僕がアジスアベバのボレ空港で見た光景は、自分が少し的外れなことを想像してたのではないかと考えさせられるものだった。夕暮れのボレ空港は黒いムスリムのチャドルをかぶった若いエチオピア娘たちで溢れかえっていた。いったいこの娘たちはどこに行くのだろうか、と長い列の先頭を見ると「ドバイ行き」のチェックインカウンターが。僕はやっと状況を把握した。彼女らはエチオピアから中東へ行く出稼ぎ労働者だった。
それにしても彼女たちの顔はなんだか生き生きしている。「これからUAEでひと稼ぎしまっせ」と自信にみなぎっている。パスポートを片手に「若気の至り」とばかりに時にはいんぎんな態度で肩で風を切って空港内を闊歩している。反面、ロビー内のエスカレーターの前で乗り方が解らず立ち止まっている姿がほほえましい。そういえば、エチオピアではエスカレーターを一度も見なかった。


話を元に戻そう。ゴンダールのビアガーデンでアメリカだ欧州だと話していた自分が恥ずかしい。考えてみれば今時出稼ぎといえば中東であろう。一方、エチオピアの建設ラッシュ、交通インフラ整備などを強力にバックアップしていたのは中国だった。欧米中心に世界がまわっているという僕の考えはあまりにも古臭い。世界の果てにあるのはエチオピアではなく実は日本なのかもしれない。


2012年10月記



今日の一枚
” チャドル ” エチオピア・ゴンダール 2012年




fumikatz osada photographie