<< magazine top >>








ボートピープルは香港をめざした


1980年代後半、ニュースで「ボートピープル」という言葉をよく耳にした。「ボートピープル」 とは船に乗って他国に流れ着く難民たちのこと。ちょうどそのころ、ベトナムからの難民を乗せた船が頻繁に九州に流れ着くようになったのだ。
それでは、彼らに対するバブル絶頂期の日本の反応はどうだったか?僕が記憶する限り「汚い船に乗って怪しい人たちがやって来た」そういう論調だった。

ベトナム滞在中、さまざまな人たちと話をして気づいた。難民として船で出国した経験を持つ人が非常に多い。そして、会話の中でしばしば出てきた地名が「香港」だった。それだけ香港に向かった人たちが多かったということだろうか?
ただし、話の結末は人それぞれで、あるものは香港に入国して仕事にありつけたし、またあるものは入国さえ許されずにそのまま強制送還されたというものだった。それではなぜ、一時は香港で仕事を持った人たちも、今こうしてベトナムに戻って生活しているのだろうか?


ベトナム戦争直後、1975年にベトナムが社会主義に移行し、社会システムの変化に不安を覚える旧南ベトナムの人たちを中心に出国の動きが起る。ベトナム難民の歴史は僕が考えたよりずっと古い。さらに1979年、国連難民高等弁務官事務所が人道主義の観点から約60万人の合法出国を認めると、ベトナムを出国する難民の数はピークを迎えた。

受け入れ国の側から見てみよう。1980年イギリスが難民保護の協定にサインすると、香港がボートピープルを無条件に受け入れる「第一収容港」になった。そして香港には沢山の難民キャンプも作られた。(ここでなんとなく、僕がベトナムの人たちから頻繁に聞いた「香港」というキーワードがリンクしてきた。)ところが、ベトナムを船で出る難民の動機というはその後変化した。つまり、出稼ぎを目的とした出国に変わってくる。香港にとってはこういった政治難民でないボートピープルの大量流入が経済的な痛手になった。

1988年香港政府はスクリーニング(難民資格の認定作業)を開始。資格を得られない人たちはベトナムに送還された。もはや、香港にたどり着いても定住できる見込みはない。それでもボートピープルたちは香港を目指した。
1997年に香港が返還され、翌年には第一収容港政策が撤回される。同時に難民キャンプも閉鎖された。こうして香港を目指したボートピープルたちの歴史は幕を下ろしたわけだ。最終的に香港が受け入れたボートピープルの総数は20万人にも昇ったそうだ。僕が僅か数週間のベトナム滞在で数多くの体験談を耳にしたのもうなずける。

彼らが送還された後、ベトナムは大きく変わった。1986年にドイモイ(市場システム)が導入され、多少の下降・停滞を経験しつつも、現在のベトナムの経済は好調に推移しつつあるようだ。その一方で、成長を下支えしているのは海外に移住した越僑たちからの送金だというから何だか皮肉な話だ。


さて、母国に戻されたボートピープルたち。僕なんかよりずっと波乱万丈の出来事を経験してきたくせに実に飄々としている。そう、ファインダーを通してベトナム人の目の中に僕が見たのは、ギラギラとした野心でもなく、未来に対する深い絶望感でもない。まさに、「日々飄々と生きている感じ」なのである。そして、その軽さの奥には底知れぬタフさみたいなものが横たわっていた。


2008年5月記



今日の一枚
” ポートレイト ” ベトナム・フエ 2004年


1 重慶大廈経由メインランド行き その2 ボレ空港の出稼ぎ娘~消えゆく日本 その2




fumikatz osada photographie