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ナゴルノ・カラバフ その1


昨年、アルメニアの旅に持っていったガイドブック「ロンリープラネット」によれば、ナゴルノ・カラバフ(Nagorno-Karabakh)という地名はロシア語のNagorno=山、トルコ語のKara=黒い、ペルシャ語のBakh=庭をあわせた造語だそうだ。このアルメニアとアゼルバイジャン国境の山岳地帯は古くから領主が変わってきた。その結果がこの複雑な地名の由来。


このナゴルノ・カラバフをめぐって9月末からアルメニアとアゼルバイジャンの間で軍事衝突が起こっていた。両国は再三停戦交渉のテーブルについたが決裂。11月中旬、ロシアの仲介でようやく合意に至った。
カラバフの中心都市はステパナケルトだが、その9km南にシュシャという古い街がある。アルメニア、アゼルバイジャンどちらにとっても文化上重要な町だ。次から次へと上塗りされた絵画のようなナゴルノ・カラバフ歴史をシュシャの人口の移り変わりで見ていくとしよう。参考文献はwikipediaの「シュシャの人口と民族の比率」。


1823年、ロシア帝国の国勢調査ではシュシャの人口は1,532人。このうちアルメニア人が27.5%、アゼリ人(アゼルバイジャン人)が72.5%だった。その後、ロシア・ペルシャ戦争によってイスラム教徒のアゼリ人たちはペルシャ(現イラン)へ逃れ、シュシャのアルメニア人住民は徐々にその数を増やしていった。19世紀末にはアルメニア人の割合は53%に達し、アゼリ人の41%よりも多くなった。その頃にはシュシャはコーカサス地方ではジョージアのティビリシに次ぐ大都市になっていた。


民族構成が大きく変わったのは1920年で、アゼルバイジャン共和国当局に対するアルメニア人住民の反乱がきっかけ。シュシャのアルメニア人居住区はアゼルバイジャン軍によって焼入払われ、多くのアルメニア人住民たちが虐殺された。これが今日まで続くアルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフをめぐる紛争の始まりだ。1926年の調査ではアルメニア人住民の割合はわずか1.8%に激減し、反対にアゼリ人の割合は96%になった。人口も1万人ほどになりシュシャは一地方都市に成り下がってしまった。


その後少しずつアルメニア人住民の割合が増えて行ったが、1988年にアルメニアとアゼルバイジャンの間で戦争が勃発。戦闘によってアルメニア人住民は再び町を追われ98%がアゼリ人となった。
しかし、1992年に再び起こった戦争ではアルメニアが勝利しアゼリ人が町を追われることになった。以後、今回の戦争に至るまで住民はすべてアゼルバイジャンや他のナゴルノ・カラバフ地域から移り住んだアルメニア人で占められた。



2020年12月記


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” ロシア - アゼルバイジャン ” 2019年




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