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あなたの写真を撮らせてください


「お兄さん、むやみに人の写真なんて撮るもんじゃないよ。化けて出るよー」沖縄で街角スナップを撮っていたときにこんなことを言われた。「化けて出る」なんて脅かされたのは初めてだ。僕が今までに撮った人物の写真は少なくとも数千枚。この人たちに毎晩出てこられたら身が持たない。根が繊細なもので、こういう強い言葉はずっと尾を引く。
ところが、気がつけば最近は自分より若い人の写真を撮ることが多くなった。これから先、自分よりも確実に長く生きる人たちが殆どではないか。いうことは「化けて出られる」心配は無くなったのかも。
冗談はさておき、人の写真を撮るという行為に不快感を持つ人も、写真嫌いな人も世の中にはたくさんいる。結局、人の写真を撮るのは難しいということだ。コミニュケーションのとり方だけではなく阿吽の呼吸みたいのもある。


以前、若い子にこの話をしたら「ああ、ノリの違ってやつっすね」と軽く言われた。すっごい的確。そう、本来「ノリの違い」で片付けられるものなのだ。ところが生真面目な撮影者は人を撮るのに一種の罪悪感を覚え、大義名分を考えてしまう。
写真の授業で先生はこう言ったなあ。「撮ることによって被写体を呪縛から解放してあげるのだ。だから撮らせて?」うーむ、これは撮影者にあまりにも都合のいい考え方のような(笑)
他方、写真家の荒木経惟氏は著書の中でこう書いている。「撮らせてもらったお礼はプライド」これ、僕は大先生に撮ってもらったというプライドだと勘違いしていた。けれどよくよく読んでみると「撮ってあげることによって被写体ひとりひとりに自信を持たせてあげる」という意味だった。いや、これは金言。
まあ、自分の場合は「悪いようにはしないから」とか「綺麗に撮ってあげるから」とかアプローチこそ陳腐だけど(笑)最終的に自分の写真を見て喜んでくれたり、感激してくれたり、自分に自信を持ってくれればそれが最高の幸せなのだ。これは人物写真を撮っているとしばしば実感できる。


それでは、自分が撮られる側になったらどうだろうか?実は最近こういう場面が増えた。世界中どこに行っても「あなたの写真を撮らせて」「日本人を見たの初めてなので」「旅の記念に一緒に写真を撮らせてください」とスマホをコチラへ向けられる。断る理由もないので撮られるままなのだが、モニターに映ってる奇妙なオヤジの写真を後で見せられるとプライドを持つどころか、ますます自信を失っていくんですな。だいたい、最近は鏡を見ることさえはばかられる。「あれ?また白髪が増えた?」とか「なんだよこの目じりの深い皺は」とか、なんだか劣化ばかりが気になって・・・そこに行くと僕の写真に写っている人たちのなんとカッコいいことか。若い人たちは美しく、ハンサムに。年齢を重ねた人は燐として、味わい深い。いったいこの違いはどこから来るのだろう?撮り手の腕ですか?(笑)


僕が撮った枚数と同じだけの無様な自分の写真が世間に出回っているのはなんとなく空恐ろしい。その一方で「珍しいから写真を撮らせてくれ」とか「記念に一枚」というスマホカメラマンの動議付けというのは、実に素直だと思う。その通り、僕たちが人の写真を撮る理由というのはそのくらい単純なのである。美しいから、記念に残したいから、仕事だから・・・写真を撮らせてください。(断られたら「ノリの違い」ということで)世界中が撮って撮られて、プロには難儀だけど写真文化のためには非常に良い時代になった。ま、僕は自分を撮った人のところへ化けて出る予定ですけどね、ひひひ。



2016年1月記



今日の一枚
” 材木屋のオヤジさん ” バングラデシュ・ラッシャイ 2015年




fumikatz osada photographie