<< magazine top >>










中国大陸の遥か上空で


半年ほど前、中国の国内線で何気なく広げた英字紙にこんな見出しを見つけた。「インド政府は、中国政府とのトラブルに巻き込もうとする日本政府の誘いにはのらないであろう」(2015年1月23日「グローバル・タイムズ」)
~日本の岸田外相は先の訪印で、印中国境アルナーチャル・プラデーシュ州におけるインドの実効支配を支持することを表明した。尖閣問題以来、日本政府は中国のありとあらゆる領土問題に干渉してくるようになった。中国と近隣諸国の間に摩擦が起きると、当事国に代わって日本が中国を非難する構図だ。しかし、インド政府は中国とも日本ともうまく付き合ってゆくのが賢明であるということをわかっている~
というような内容で、最後は「日中関係は史上最悪だが、日本政府の不適切な発言や行動に取り合う必要はない。なぜなら、日本は自ら大国としての威厳を失墜さているからである」と辛辣に結んでいる。中国の新聞といえども最後は「そこまで書くか」と、日本人としてはかなり耳が痛かった。しかしこの記事、わりと的を得ているような気がする。


歴代最多の訪問国数を誇る安倍外交を振り返ると、ほぼ記事の内容に当てはまる。言葉の端端に中国の脅威をにおわせて日本側への賛同を求める。最後に「ひとつよろしく」と多額のODAを置いてくる。各国のリーダーたちは「そうですね」と同意をするし、頂ける援助はありがたく頂く。けれども、一国のリーダーが中国に対する日本の首相の悪口をそのまま真に受けるワケがない。どの国も中国との関係は良好でありたいはず。だから内心は「安倍さん、お隣同士仲良くやったらどう?」と思っているに違いない。
ネット社会では、掲示板などで間接的に人の悪口や悪評を立てることを「ディスる」というらしい。英語の「ディスレピュート」の略だそうだ。こういう「ディスり外交」というのはいかにも幼稚でなんとも格好が悪い。仮に自分の愚痴を聞いてくれる人を100人見つけてもなんら当事者間の問題解決にはならない。相手の立場を認めて当事国同士がきちっと腹を割って話せる関係にならないといけない。


日本では安保法案の審議が進んでいる。集団的自衛権の存立危機のひとつの想定としてあれほど強調していたホルムズ海峡の機雷設置を安倍首相は最近そっと引っ込めた。代わりに出してきたのが南シナ海に於ける中国の脅威である。しかし、そこは日本の領海に関係する場所でもない。一体いつから日本はアジアの警察になったのだろう。
おそらく、安倍政権はホルムズ海峡の時と同じ理論でシーレーンの確保ということを挙げるだろう。中東からのタンカーがこの海域を通れなくなると日本はエネルギーが枯渇し、経済が混乱して存立危機におちいるという話。残念なことに、歴史を振り返ると戦争はだいたいこういう理由で始められてきた。
けれども、時は21世紀である。昨年の世界産油国ランキング(BP調べ)によればアメリカがサウジを抜いて首位に躍りでた。言わずと知れたシェール革命のお陰だ。アメリカでさえ、もはや石油のために戦争を行う道理はない。ちなみに、日本の一部メディアが「バカ食い」と皮肉る中国は世界第4位の産油国で太陽光発電大国である。世界は既に中東の石油から脱却しつつある。次代のエネルギーを考えている。
ところが安保法案の説明を聞くと、日本は今後も延々とサウジやクウェートの石油に依存し続けるつもりらしい。「だから、タンカーの通り道にある邪魔者は排除しますよ」なんとなく20世紀の亡霊のを見ているようで気味が悪い。おそらく、こういうところが安倍政権が世界から懐疑的に見られる要因なのだろう。


ここでもういちど前回の矢部宏治氏の著書に触れたい。書によれば「国連」とはそもそも第二次世界大戦における戦勝国「連合国」を受けたもので、日本やドイツといった敗戦国の地位はいわゆる敵国条項によってかなり制限されているのだそうだ。つまり、戦後の国連中心主義においてこれらの国々は最下層からの出発を余儀なくされた。しかし、日本と同じ敗戦国のドイツが少しずつ敵国条項の縛りから解放されてきたのは、大戦の痛切な反省の上に立って隣国との信頼回復に努めてきたからである。それと比較して日本はどうだろう?近隣のアジアの国々と信頼を少しでも回復しさせて来ただろうか?
そんな中、8月15日に出される予定の安倍首相の戦後70年の談話は「未来志向」になるというのだから驚く。作文の題名をもう一度読み返して欲しい。過去の歴史を割愛して「未来への選手宣誓」を行うのなら何も70回目の終戦記念日に出さなくてもよいであろう。日本の首相が何を話すのか、世界の人たちは耳を澄ませて聞いたほうが良い。


僕は元々、平和とは一切の武器を手にせず、憲法9条を変えずに守り抜くべきだと思っていた。けれども、最近の安保法案審議の流れを見ているうちに「解釈変更の余地のない具体的な条文」が必要と考えるようになった。自衛隊の所持の明文化と海外への派遣の一切の禁止、外国軍の駐留の禁止などを盛り込むための憲法改正は必要なのかもしれない。
しかし今、憲法改正というと集団的自衛権をいわば合憲化させるために政権側の思惑通りに変えるというニュアンスがある。安保法案を無理やり採決しようとする政権に対して「集団的自衛権を主張するなら憲法改正案を出して国民に問うべきだ」という声が聞こえて来るけれど、「ホルムズ海峡はダメだけど、対中国なら安保法制に沿う形に憲法を改正してもよい」となりそうでなんとなく怖い。
それほど政府やマスコミによって「中国脅威論」が日本人の心の奥底まで刷り込まれている。おそらく安保法案に反対する人たちの中にも政府が言う「世界情勢の変化」(おそらく中国の脅威の増大という意味だと思う)という部分には同意する人は多いのではないか。(僕には国家間の関係という点では「世界情勢」は特に変わっていない、いやむしろ好転しているように思える。紛争の構図はもっと細分化されている)
ところが「火をたきつけているのは日本なのではないか」「変化してしまったのは実は日本人の方ではないか」と客観的に見る人はもはや少数派になり、日々の世間話の中でさえ中国に関することを肯定的に話すこともはばかられるような雰囲気がある。日本は本当に不自由な国になってしまった。


第二次世界大戦が始まって間もない、1941年8月。アメリカとイギリスの首脳は大西洋上に浮かぶ戦艦の上で共同宣言を出した。大西洋憲章と呼ばれるものだ。そこには既に戦争の結末を見越したように、戦後の世界秩序に対する両国の合意と日本を含む敵国が二度と世界に対して脅威を与えないよう一切の武装を解除させることが記されていた。すなわちこれが、4年後にGHQによって日本国憲法に盛り込まれた第9条である。流されやすい日本人が「鬼畜米英」「わが軍優勢」という塗り固められた国家の嘘に乗っかって軍国主義にたなびいていく、その裏で現実は淡々と進んでいた。あれから70年が経ち日本人はどれくらい賢明になっただろうか。



2015年8月記



今日の一枚
” 中国大陸の遥か上空で ” 中国 2015年




fumikatz osada photographie