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ウェルカム・トゥ・ジョルダン その1


"Hello! Welcome to Jordan" ヨルダンの街を歩くと大人からも子供からも声を掛けられる。「つかみ」の言葉としては稀なフレーズだと思う。自分の経験からいくと、例えばアジアの国では外国人と見るや子供たちが遠巻きに寄ってきて"Hello! How are you?" と声を掛けてくる。"Hi...uh..."と返事をしかけると"I'm fine thank you"と勝手に締めくくって走り去ってしまう。しばらくするとさっきの子供が戻ってきて恐る恐る"What's your name?"とたずねてくる。そんな英会話が一般的だ。だから、ヨルダンの人たちの"Wellcome to Jordan"(ジョーダンではなく巻き舌でジョルダンと発音していた)には、ムスリムの客をもてなす心遣いや人々の奥ゆかしささえ感じられて嬉しくもあり、なんとなく微笑ましくもあった。


それでは、自分が子供のころ外国人にどういう反応をしていただろうか?僕は"How are you?"すら口に出せなかった。キリスト教の布教のために滞在していたらしいアメリカ人が国道を自転車で走っているのを見て、まるで異星人に接するかのごとく友人とこわごわ声を掛けたりした。けれども、英語を全く知らないから「あー」とか「うー」とか言いながらジェスチャーするしかない。なんだかひどく歯がゆい思いをした記憶がある。それでも彼らは辛抱強く日本の子供たちの相手をしてくれた。
英語の授業もひどかった。中学校に入って一番最初に習うフレーズは"This is a pen"。しかし、その後自分が行った実際の英語会話の中で"This is a pen"はついに一度も使われることはなかった。ちなみに僕の父親の時代は"I am a boy"だったそうだ。これもひどい(笑)とまあ、これが日本の英語教育だった。


「だった」と過去形にしているのは、近頃では学校の英語教育もずいぶん変わったらしいからだ。驚いたことに英語は小学校から授業がある。しかも外国人教師で。「日本人の英語力がないのは幼いころから生きた英語に親しんでいないから。英語は耳の良い子供のうちに習い始めるのが上達の鍵だ」というのが早期英語教育の理由らしいが、僕には「幼いころから英語を習えば自分の思っていることを英語で自由に表現できるようになる」とは思えない。
英語を聞いて読んで理解し、話し書いて表現するにはというのは自分の頭の中にある程度の一般知識があり、母国語での文章構成能力が必要だ。「ネイティブの発音を聞き流しているだけですらすら英語が話せるようになる」なんていうのは幻想で言葉の学習とは常に意識的に行われなければ効果はない。日本語で自分の言いたいことを論理的に話せるようになるのは中学生ぐらい。だったら外国語を始めるのもそのくらいの年齢でよい、というのが僕の考えだ。それともうひとつ。それは英語だけが外国語で、英語をネイティブのような発音で話すことがカッコイイなどという誤った思い込みを子供たちに抱かせかねない。もっとも、多くの日本人は大人でも勘違いしているけれど・・・


それでは、小学校での外国語の授業は全く意味がないかというとそうではない。小学校での「英語」の授業は「コミュニケーション」の授業にすればいい。僕が子供のころアメリカ人たちと言葉が通じなくて苦労したように、まずはジェスチャーのみで意志伝達をさせてみる。それはそれは不便な世界だろう。だから、人間は言語という道具を使いこなさなければならない。その言語には手話も中国語もロシア語もあり英語はそのうちのひとつなのだ、ということを教える。とにかく言語というものをきちんと意識させる。日本語で発表をする、討論をするといった練習も必要だ。そして、外国人の先生を月に一度でも呼んで、他の国からきた人とのコミュニケーションを楽しむ。先生のお国自慢をしてもらう。一緒に遊ぶ。それによってバランスの取れた国際感覚も子供たちは身に着けることができるだろう。


おそらく彼らは中学で英語を学ぶことになる。でも、一番最初にコミュニケーションの定義を学んだ生徒たちはいままでとは違った意識で英語に相対することができるのではないだろうか。"This is a pen"を頭ごなしに教えられた僕らとは雲泥の差だ。

2012年2月記



今日の一枚
” ポートレイト ” ヨルダン・サルト 2010年




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