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笛吹きは僕の頭の中を永遠にループする


写真と同じくらい「言語」に関心がある。例えば、隣り合った2国のことばの系統が全く違ったりするのは実に興味深い。一方は東から入ってきた言語系で他方は西からというように、これはおそらく言葉を使う民族の移動に起因するのだろう。また宗教や植民地時代の宗主国との関係で言語が定まることもある。
こうした言語によるマッピングや、僕のポートレイト作品に出てくる人々の顔のマッピングというのは、国家によって線引きされた国境だらけの地図より遥かに面白い。僕の推測によれば「言語地図」上で国境はぼやけ始め、「顔地図」上では完全なグラデーションになる。


「見知らぬ土地にポンと行って(一般の)人々のポートレイトを撮るときにはたして言語能力は必要か?」という問いに対する僕の見解はいつも揺れ動いている。最終的には「NO」だと思う。写真を撮る撮られるという両者合意の段においてもはやことばは関係ないのではないか。
けれども、その過程において「意思伝達の手段」を持つことは大切かもしれない。「あなたの写真を撮らせてください」というリクエストに、大概の”大人”は「なぜ?何のために?」と聞き返す。(もっともな話だ、僕だって自分の前にいきなりカメラを持った得体の知れない人物が現れて、「あなたの写真を撮らせてくれ」と言われたら「何で?」と聞くに違いない)そんなときに相手にわかる言葉でその意図を説明できない場合は、残念ながら撮らせてもらえないことが多い。これも至極当然。
一方、撮り手としては自分が興味を持った被写体のことを会話を通して知りたいという願望もある。たった一度の出会いならば、そこで撮る側と撮られる側の人間がなにかしらの言葉を交わして情報を共有するべき、というのが僕の理想だ。


ここまで書いて僕は中国甘粛省合作市で撮った「笛吹き」の写真を思い出した。
その日、僕は街の周りの草原地帯を歩いていた。やがて風の音に混じってどこからか笛の音が聞こえてくる。遠く山の上のほうを見やると。ひとりの男が縦笛を吹きながら草原の中の一本道を下ってくるのが見えた。標高3100mの真っ青な空の下、「ピッコラ、ピッコリ」とチベット帽の男がこちらに向かって歩いてくる。それは、用意された映画のワンシーンのようにも思われた。むしろ、あまりに出来過ぎたシチュエーションに、僕はこれはもしや「ドッキリカメラ」か?とテレビカメラを探してしまったほどだ。隣にいた放牧中の馬が言った「ドッキリじゃないよ」

これほど絵になる人物と素晴らしい風景を作品に残さない手はない。すれ違うときに僕は彼にお願いしてみた。男は理由も聞かずにカメラのフレームに納まってくれた。
それにしても、彼はなぜ笛を吹いているのだろうか?歩いているときの退屈しのぎだろうか?それとも何か別の(例えば宗教的な)意味があるのだろうか?それを知りたかったが、僕はアムド語(チベット語の方言)も中国語も話せない。いつものように、筆談用の紙とペンを探しているうちに男はまた「ピッコラ、ピッコリ」と笛を吹きながら別の山の峰へと向かって歩いて行ってしまった。
こうして、謎はずっと謎のまま、笛吹きは永遠に僕の頭の中を「ピッコラ、ピッコリ」とさまよい続けることになる。


そう考えると、ミステリアスな人物のポートレイトもそれはそれでよいのかもしれないな。ほらっ、僕のなかでまた「言語による意思疎通の必要性」が揺れてきた。


2008年10月記



今日の一枚
” たて笛を吹く男 ” 中国・甘粛省合作 2008年


 合作の丘  原子物理学を勉強しないか? その2 ブライトンの海へ




fumikatz osada photographie