原子物理学を勉強しないか? その2
男は僕に酒をご馳走してくれた。スコッチのグラスを手渡しながら、彼はこう続けた。「若いの、お前さんさっきのアメリカ人のことを『友達』と呼んでいたが、あんた達はいつ知り合ったんだ?」僕が2時間前だと答えると、「若いの、2時間前に知り合った人のことを『友達』なんて呼んじゃだめだ。そんなに簡単に人を信じちゃいけない。後で痛い目にあうぞ」そう返してきた。そう言われると、にわかにこの男のことも信じられなくなってきた。
「それより、若いの、原子物理学を勉強したらどうだい?俺も若い頃はお前さんのように飛行機で世界中を周ったよ。でも、今は自分の船であちこちの港と女に入り浸りさ」もしそれが本当の話なら優雅な生活だが、男の風貌はそれほど裕福には見えなかった。
ふたりともかなり酔ってしまった。男のろれつが怪しくなったところで女たちとキスを交わし僕たちは店を出た。腕時計を見ると午前3時になろうとしている。男は「肩を貸してくれ」と言った。僕たちは肩を組んで海岸線の道を千鳥足で歩いた。火照った顔に潮風が心地よい。僕が「どこに帰るの?」と聞くと男は「船だ」と答えた。
「彼は本当に自分のクルーザーに帰るのだろうか?」そんなことを考えているうちに自分のホテルの前に着いた。酒の礼を言うと、男は「そんなことより、若いの、原子物理学を勉強する気になったかい?」と尋ねてきた。「それは一体どういう意味だい?」と僕が真面目に問いかけると、男はふっと笑って「おやすみ」と手を振った。僕の肩がなくなった彼の足元はかなり危なかったが、心配する僕を制して男はヨットハーバーの方へ消えていった。気がついてみると「白タク」の一件に対する僕の怒りはすっかり消え去っていた。
旅をしていると時々不思議な人間に出会う。バレッタの酒場で会ったこの男もそのひとり。それにしても「原子物理学・・・」の意味は何だったのだろう?
2005年10月記
今日の一枚
”腕” マルタ 1994年
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