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原子物理学を勉強しないか?  その1


路地裏のバーで、2人の男が愚痴をこぼしている。ひとりは鼻息の荒いアメリカ人の巨漢。そして、もうひとりは僕だ。

ここはマルタ島バレッタの街はずれ、時刻は深夜の1時をまわろうとしている。僕たちは共に「白タク」の犠牲者だ。1時間ほど前にシチリアから港に着き、タクシーに乗せられて、街の中心から3km離れたホテルに連れてこられた。当然ながら、愚痴は値段を吹っ掛けたタクシーの運転手と紹介されたホテルに対するものだ。


ホールの真ん中にはビリヤード台があって男が酒を飲みながら玉を突いている。その周りには地元の女たちがいて、椅子に腰掛けて男のビリヤードを見ている。男は気前よさそうに女たちに酒を振舞った。和やかな女たちの横で、大きなアメリカ人とちっちゃな日本人が不機嫌な顔をしているのを見て、ビリヤードの男が尋ねてきた「おまえら、何をそんなに怒っているんだ?」僕らは理由を説明する。すると、男は「つまらん事だ」とでも言いたげに口を前に突き出した。
第三者の冷静な視点で見れば確かにつまらないことかもしれない。しかし、当事者にしてみれば簡単に怒りを納めることなどできない。その証拠に巨漢のアメリカ人は会話によって怒りが再燃したらしく、不機嫌な顔でホテルに帰ってしまった。


ビリヤードの男は北アイルランド出身。自家用クルーザーで世界を周っているらしい。やや強面顔で、くたびれたウィンドブレーカーを着ている。ただの酔っ払いだと言われればただの酔っ払いに、テロリストだと言われればテロリストに見えた。

男は一人になった僕に話しかけてきた。「若いの、そんな小さなことで腹を立てちゃだめだ。東京でタクシーに乗ったらいくらとられる?中級のホテルに泊まったらいくらとられる?それよりお前さん、原子物理学に興味があるかい?」「えっ、原子物理学?」あまりに突拍子のない言葉に、僕が思わず聞き返すと「いや、特に深い意味はない」と男はごまかした。それはさておき、男の言っていることは間違いではないようだ。4km3千円のタクシーに8千円のホテル、確かに東京だったら適正価格かもしれない。


2005年10月記



今日の一枚
”マルタの壁” マルタ 1994年


さよならYS-11




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