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「溶け込む」ということ


「souvenirs(スヴニール)」という作品のために1ヶ月かけてパリの子供たちを撮影したことがある。大の苦手だった「主題に沿って写真を撮る」ということに少しだけ慣れたころだ。しかし、正直に言うと当初は子供を撮ろうとは思っていなかった。毎度のことなのだが「何を題材に作品を作っていくか」は実際にその場所に行ってみないと決まらないのだ。
だいたい、机上で立てた計画がその通りに進んだためしがない。自分の頭の中でイメージした被写体と実際に目の当たりにした被写体との間にはいつも大きな隔たりがあるのだ。結局、現地に行ってみると僕の偏った固定観念は無惨にも打ち砕かれ、全く別のものが見えてくる。しかも厄介なことに次々と・・・


それでは、前もって取材をすれば何かしら焦点をあわせるポイントが見つかるだろうか?そうでもないらしいのだ(笑)ちなみに「souvenirs」の時は僕にとって6度目のパリだった。最初は移民たち、大人たちを撮ろうと考えていた。パリには移民たちが多く住む地区があることを僕は知っていた。ところが、実際に写真を撮り始めてみると「自分のやっていることは果たして正しいことなのか?」という疑問がわいてきた。街にはアラブ系やアフリカ系の人たちが思った以上にあふれている。そういった人たち抜きではパリは語れないし、彼らは完全に社会に同化して風景の一部になっていた。少なくともそのときの僕の目にはそう映った。同化している移民たちをわざわざ抽出して写真に撮っている自分になんだか嫌気が差してきたのだ。


そんな理由から、滞在1週間目で僕は早速、作品の主題変更をした。たしかに移民たちはパリの風景の一部になっているが、大人たちのコミュニティは同じ文化圏の人たちでかたまりがちだ。けれども、子供たちの社会は少し違った。彼らは様々なバックグラウンドを持つ友人とうまくやっていた。そこから僕が得たキーワードは「混ざっているものの中から抽出するのではなく、混ざっているものをそのまま表現すること」そして「子供たちの個を尊重すること」だ。かくしてそれが「souvenirs」の主題となった。


撮影は無事に終わった。しかし数年後、僕は大きなショックを受けることになる。それは、移民たちの暴動のニュースを目にしたからだ。「社会に溶け込んでいる」と思い込んでいた移民たちが、仏社会と自分たちの扱いについて、それほど大きな不満と怒りを持っていたなんて。ひと月もパリに住んで写真を撮って、フランスが内包する社会問題が自分には何ひとつ見えていなかったと思うと少し恥ずかしくなった。
作品のモデルになってくれた子供たちも近い将来、そういった社会の矛盾に遭遇するのだろうか。いや、彼らは既にそれに気づいているのだ。そんなことを考えながら「souvenirs」をもう一度見直すと、作品の中の子供たちがすごく大人びて見えた。


2006年7月記



今日の一枚
” 湿度 ” フランス・パリ 2001年


残念ながらキミはボツだ、しかし・・・  ヴィルジュイフ




fumikatz osada photographie