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砂丘の向こう側の楽園


「スペイン領カナリア諸島のグランカナリア島。マスパロマスの砂丘は広大で、砂嵐が起こるとヌーディストたちが迷子になることも・・・」雑誌を読んでいてそんな記事が目に留まった。大きな砂丘、ヌーディスト、僕にはどちらの言葉も非常に「官能的」に響いた。それからというもの、僕は虎視眈々とその島に行く機会をうかがっていた。


やがてチャンスは訪れ、その日僕はマスパロマス砂丘の入り口に立っていた。住宅街の片隅にある大きなホテルの庭先が入り口になっていて、そこから先は海まで1.5km、海に沿って4kmという広大な砂丘が広がっている。それは想像したよりも遥かに大きく、そして、その砂がすべて対岸のサハラから飛んできたものだという事実が、僕のロマンをさらに掻きたてた。

砂丘の中を歩く。なるほど、谷間に入ってしまうと完全に視界が遮られる。砂丘の頂上に立っても目標物は遠くに建つ灯台とホテル、そして、時々見える海しかない。砂嵐や月のない夜だと本当に迷うかもしれない。
しかし、あくまでも砂丘は砂丘、「砂漠」ではない。時々出会うのは、駱駝の商隊でもなく、トゥアレグ族でもなく、ベルベル人でもなかった。楽しそうに砂丘ハイクをする観光客たちだ。
ところで、彼らはみんな服を着ているが・・・さて、もうひとつの目玉「ヌーディスト」の方はどうなっているのだろうか?そんなことなど忘れるくらい美しい砂丘に魅了されてシャッターを切っていた時である。覗き込んでいたファインダーに素っ裸のおじいさんがジョギングしながらフレームインしてきた。「おやっ」と思っていると、今度はおばあさんの尻が入ってきた。「ハッ」として後ろを振り返ると、裸の老人たちがこちらに走ってくるではないか。やがて僕は裸の老人の集団に飲み込まれ、彼らはまるで僕がそこに存在しないかのように走り過ぎて行った。

「これが噂のヌーディストか」幻のヌーディストビーチは確かに存在した。しかし、「ヌーディスト=若い美女」という都合の良い公式を頭に描いていた僕は、裸の老人たちに肩透かしを食らった感じだ。それにしても彼らはどこから走ってきたのだろう。ふと、向こうの砂丘を見やると若い女性がひとり、頂上で服を風になびかせている。やや強い潮風が気持ちよさそうだ。僕がそちらに向かって歩き始めると、彼女も砂丘を降り始め、ふたりは真ん中の砂丘の上ですれ違った。そして僕は思わず「はっ」とした。美しい彼女が一糸もまとっていなかったからだ。服に見えたのは薄いレースで今はそれを片方の手にぶら下げて、彼女はあっけらかんと裸で歩いている。僕は平静を装って目で挨拶を交わしたが、正直、目のやり場にかなり困った。そして、さっき彼女のいた砂丘に登ると眼下に広がったのはヌーディストたちの楽園だった。老いも若きも裸の男女が語らったり、ビーチで水浴びをしたり、読書をしたり、いちゃついたり・・・僕にはその楽園に首からカメラを下げて入って行く勇気がなかった。もっとも、それが何のための勇気か見当もつかないが(笑)


フランスで生まれたこのヌーディスト文化。敬虔なカトリックの国スペインのさらに本土から遥か離れたカナリア諸島に住む人々は訪れる裸の観光客をどうとらえるのだろうか?「自由な世界」だから決められた場所で裸で生活するのはもちろん個人の自由だ。
しかし、「ヌーディスト」という言葉にあれほど憧れを抱いていたにもかかわらず、実際に見たその光景はなんとなく異様に見えた。僕は「古い人間」なのかもしれない。それとも、楽園に入って服を脱ぎ捨てた時に眠っていた僕のヌーディティーが目覚めるのだろうか?


2006年2月記



今日の一枚
"Dune ” スペイン・グランカナリア島 1993年


1 断食月のモロッコを行く  砂漠の端を歩いた




fumikatz osada photographie