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フローティングボード


自分の作った作品はどれも同様にかわいい。けれども、もし僕が見手として自分の作品を眺めたなら、好きな作品というのが存在するのも確かだ。例えば、1992年にマサチューセッツ州ハイアニスで撮影したこの作品。


夏の終わり、ケープコッドのプライベートビーチの沖合いに浮かぶフローティングボードの上に家族が佇んでいる。潮が満ちてくるか引いてくるかして、これからひとりひとり浜に上がろうとしているのだろうか。そのディテールはわからない。
しかし、沖合いのボードの上で佇んでいる彼らの気持ちというのは、なぜかあたかも自分がそこにいるようにひしひしと伝わってくる。潮の香り、ボードを揺らす波の音、風の音、家族の顔。夏が終わっていくさびしさ、僕がもしその作品の中に入っていけたなら、ボードの上でそんなことを感じただろう。

そこには(少なくとも僕の)作品を観ていく上で重要な要素が含まれているような気がする。
僕にはプライベートビーチのある別荘で夏を過ごしたという経験はない。マサチューセッツの自然の中でひと夏を過ごしたという経験もない。それではなぜ、この作品の主人公たちの気持ちがわかるのか?というと、おそらく自分の記憶の中に類似体験を見つけたのだと思う。
それが芋を洗うような湘南の海水浴場でゴムボートに乗ったときなのか、プールの滑り台のてっぺんに立ったときなのかはわからない。でも、深いところでマサチューセッツのフローティングボードの上の人たちの気持ちとつながっているのだ。共感できる。だから、僕はこの作品に胸を打たれるのだと思う。


僕の作品は旅行写真ではない。だから見たことも無い風景や人に対して自分との相違点を発見するのではなく、共通項を見つけてもらったほうが面白いかもしれない。つまり、自分の経験や体験に照らし合わせてみるということだ。
キューバの葉巻を咥えた頑固なおばあちゃんに実際に会った人がどれだけいるだろうか?でも、子供の頃(いや、今でも)あなたの周りに頑固なおばあちゃんはいなかっただろうか?つまり、そういうことだ。それでも、共通項が見つからなければそのときは、全く未知のものとして受け入れればよろしい。
それにしても、作品の見方を説明するなんてなんともおせっかいな作家だ(笑)


2005年8月記



今日の一枚
”フローティングボード 夏の終わり” アメリカ・マサチューセッツ州ハイアニス 1992年


ケープコッドの夏




fumikatz osada photographie