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ウェルカム・トゥ・ジョルダン その3


世界中どこに行っても英語で押し通す「英語人種」がどうも苦手だった。しかし、最近はずいぶん状況が変わった。その国に行ったらその国の言葉を話す、少なくともその姿勢を見せる、というのが一般的になり、英語を母国語とする例えばアメリカ人やイギリス人でも英語でゴリ押しという風景には出会わなくなった。世代が変わり、受ける教育の質が向上し、二ヶ国語以上の言葉を話す人が増え、互いの文化を尊重するようになった。もちろん世界が多様化したせいもあるだろう。


とはいうものの、初対面の人と会話する時どちらかの母国語で話ができなければ、やはり英語での会話になる。そういうときに「あなたの英語は下手だ」とか「アクセントがおかしい」といったことが話題の中心になるか?ならない。なぜなら、それは話の内容に比べたら些細なことだからだ。通常は即座に相手の英語の能力を判断してうまい人が下手な人に暗黙のうちに合わせる。文法に過ちがあろうとも、訛りがあろうとも会話はどんどん進んでゆく。現実のコミュニケーションはこうして臨機応変にざっくりと行われる。


そんな中「英語ペラペラ」なんていう言葉が日本では未だにまかり通っているのはなんだか滑稽だ。おそらく「英語で早口になにか喋っていると」いう見た目のことなのだろう。しかし、スポーツ選手が英語で堂々とインタビューに答えたとか、英語が話せるから国際人だとか、そろそろ、そうした歪んだ外国語観からは脱却しようではないか。


日本人の英語に対する不可思議な考え方は、例えば求人広告の応募資格や企業内の昇進条件などにも表れている。一端の社会人の語学力を知るために検定試験のスコアを参考にするというのは他の国ではあまり聞いたことがない。
言葉というのは書き手と読み手、話し手と聞き手のパーソナルな関係の中で評価されるもので、検定試験のような第三者に言葉のレベルを評価させるのは筋違いではないだろうか。英語を話すその人が企業の求めている条件を満たすかどうかは、通常の面接を15分間英語で行えば一目瞭然だろう。
部長への昇進で試されるのは、部長になった暁に使う英語であるはずだ。それを検定試験のあの「家具50%オフのチラシ」や「部品の送付ミスに関する詫び状」の読解力で評価してしまって大丈夫なのか?
これは実よりも第三者のお墨付きのほうが先行してしまっている日本の「お墨付き文化」の弊害だろう。外国語でのコミュニケーションにおいて第三者のお墨付きなんて全くの無意味なのだ。


さて、3回に渡って書いてきた英語の学び方は、EUの中で仕事を求めて自由に国を渡り歩ける欧州の人々や、多数の言語が交じり合っている東南アジアの人々にとっては自然と身につくものだ。そう、食べてゆくためにそれが必要なら、下手は下手なりに英語を使わなければならない。
日本語でことが足りてしまう日本人には、ここがいまひとつピンと来ない。だから、英語を学ぶのにまず紙と鉛筆を持ってしまう。けれども、これから先も同じように日本語だけを喋っていれば暮らして行けるとだれが断言できよう。そんなときに言語コミュニケーションとはどういうものか、英語を学ぶより良い方法は何か、を知っていると中国語にもロシア語にもアラビア語にも応用が利く。つまり、やり方を覚えてしまえばあとは何語でも「以下同文」なのだ。世界の人々は今そのあたりにいる。「おお、あの人英語喋ってる」などと感動してる場合ではない。

2012年2月記



今日の一枚
” ポートレイト ” ヨルダン・アンマン 2010年




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