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土地と人との深いつながり


元来土地に対する執着はない。だから、世界中どこにでも行って自分の住みたい町に住めればどんなに幸せだろう、と僕は思い続けてきた。タンポポの綿毛のように飛んでいって好きな場所に根をおろせたらいいな。遊牧民やジプシーの生活なんてまさに理想的ではないか。


けれども、ヨルダン川西岸を訪れたときにふと考えた。僕が思い描いていた「自分の住みたい場所に住む」という理想は夢物語に過ぎないのかもしれない。
人間がその土地に住み始めるのは、実は外的要因によるところが大きい。たとえば、国家が用意した入植地に入植してくる。祖国を追われ難民キャンプに住む。仕事の関係で引っ越してくる。結婚してとある町に住み始める。先祖代々そこに住んでいる・・・というように。先ほど僕は「遊牧民やジプシーの生活は自由でいい」と書いたが、彼らだって心地よい場所を探して放浪するわけではない。生活のために住処を転々とするわけだ。


つまり、人がその土地に暮らすのは大抵のっぴきならない事情があるというわけだ。人と土地の結びつきがもっと軽薄だったら(例えば風光明媚な場所を選んで住処が決まるというように)おそらく世界紛争のほとんどは起こらなかったのではないだろうか。しかし、そんな軽い選択ができるのは単なる旅行者かよほどの大金持ちだけだろう。いや、億万長者であってもこの 地球上のどこにでも自由に住めるわけではない。


僕が人と土地との深い結びつきを再認識したのは、皮肉にも原発事故で自分の母国が放射能に汚染されたときであった。昨日まで普通に暮らしてきた土地がある日を境に突然、人体に有害な死の大地になってしまう。「土地を失うというのはつまりこういうことなのだ」と思った。
放射能という見えない敵を前に、逃げることは確かに大切だ。しかし、土地が「生活の基盤」である以上。新しい土地でゼロから再出発するのは、これはもう並大抵のことではない。
長年にわたって迫害し続けられてきたユダヤの民の気持ちが、住処を奪われたパレスチナ人の気持ちが、今かなりのリアリティーをもって感じられるようになっていることに驚く。

2011年10月記



今日の一枚
” セルフポートレイト ” ヨルダン川西岸パレスチナ自治区・ヘブロンのユダヤ人入植地 2010年




fumikatz osada photographie