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スティーグリッツの雲


まるで何かに導かれるように外に出た。車を走らせているとやがてサイドウインドウ越しの積乱雲がみるみる発達していった。こんな見事な積乱雲は久しぶりだ。ああ、恐ろしいほどの大入道。ははあ、天上の人が僕に見せたかったものはこれか・・ ・と納得(笑)



入道雲を見て僕の頭に浮かんだのは、アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)というアメリカの写真家だ。彼の作品の中に空と雲だけを被写体にした「エキヴァレント(等価 )」というシリーズがある。なぜかその作品だけが僕の頭の中にスティーグリッツのイメージとして強く印象付けられているのだが、実は彼は「アメリカにおける近代写真の父」でもある。


スティーグリッツは1864年、ニューヨークに程近いニュージャージー州ホボケンでユダヤ系ドイツ移民の両親のもとに生まれる。裕福な家庭で経済的には恵まれた環境であった。やがてアメリカでの事業を引き払い一家は一時的にドイツに移り住む。スティーグリッツはベルリンで機械工学と化学を学ぶ。同時に彼は写真に興味を持ち、新しいカメラでヨーロッパの地方を撮影してまわった。
数年後、一家は再びアメリカへ。スティーグリッツも何年か遅れて母国へ帰る。そのときに欧州で学んだ芸術写真の概念をアメリカへ持ち込む。それまでアメリカでは写真は記録の道具でしかなかった。


その後、マンハッタンの5番街に「ギャラリー291」という画廊を開設。ピカソやセザンヌなど欧州の数々の芸術家たちの作品を紹介している。のちにこの画廊での個展がきっかけで画家のジョージア・オキーフと結婚。妻ジョージアのポートレイトはその後継続的に彼の作品に出現する。


さて、時は1922年夏。スティーグリッツ58歳の時である。若手の芸術評論家、作家であるワルド・フランクに彼は作品をこう批判される。「スティーグリッツの写真の価値は被写体のおかげによるところが大きい」スティーグリッツは大きく落胆する。
おりしも母親が病床に伏した年で、それを機にスティーグリッツは取り付かれたように「雲」の写真を撮るようになった。雲の写真を撮り始めた理由について彼はこうコメントしている。「私が写真で本当に表現したいのは、マンハッタンの高層ビル群の眺めや、有名人のポートレイトや豪華なインテリアなど、いわば一部の特権階級が撮れる被写体そのものじゃないんだ。被写体は関係ない。大切なのは内面的なものなのだ。だから、金輪際自分は「空と雲」だけを被写体にして自分が40年間写真を撮り続けて何を学んできたかを確かめたいと思う。なぜ、空と雲かって?それは、その被写体が富める者の頭上にも貧しい者の頭上にも平等に存在するからだよ」
以後、スティーグリッツは亡くなるまで数百点にも上る雲の写真を撮り続けた。凄い信念である。

それをまとめたものが「エキヴァレント(等価)」だ。話の筋から察するにこのタイトルは「カメラを前に被写体に優劣などはなく皆平等なのだよ」という意味であろう。そしてもう一歩深読みすれば、「具体的な被写体がばければ写真は成立しない」という一種の偏見に対して、絵画や音楽と同じように抽象的な表現も可能であるということを彼は証明したかったのかもしれない。だから、衰えてゆく母への感情をスティーグリッツは撮影場所すら明かさない抽象的な雲の写真に置き換えていったのだ。そこには写真もまた既存の芸術と等価で評価されるべきだという主張が表れているのではないか。



スティーグリッツの写真哲学は僕にとっては理想だ。けれども、有名人の写真だけ撮っていたのでは等価は語れないのと同じように、雲だけ撮っていてもまた等価は語れないのではないか。いや、語れるとしても果たしてスティーグリッツの話のように後世に語り継がれたであろうか。その2つを並べる特権に預かれる写真家というのはそれほど多くはないはずだ。ついつい、ひがみ混じりにそう考えてしまう。
一方、抽象表現についてだが、例えば、映画が具体的な被写体を撮影しつつ見事に抽象的なテーマを描ききったように写真もまた具体的な被写体を通して抽象的なことがらを表現をすることが可能だ。今ならそう考える。
しかし、スティーグリッツの時代はまだ1920年代。絵画や音楽のような抽象表現法を写真にそのまま当てはめようとするならば、おそらく大きな壁にぶつかるに違いない。そんな葛藤が胸中交錯する中で、老いた写真家がそれまでの名声を捨て一心不乱に空に向かってカメラを構える。むしろその姿が僕の胸を強く打つのであった。

2010年7月記



今日の一枚
” 入道雲~予感” 日本・埼玉県 2010年




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