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オテル・ソボバデ その3


ホテルに帰って着替えると僕は約束どおりの午後9時にレストラン「ミモザ」に行った。ところがレストランの向かいは空地。いったいマイスの家はどこなのだろう?レストランの中に入って店主らしきイタリア人に聞く。「マイスの家?ああ、レストランの門の脇だよ」「門?」どういうことだろう?

さっき通り過ぎてきた門の所に戻ると脇の暗がりの中に草葺の小屋があった。いや、正確には4本の柱と屋根と言った方が良いのかもしれない。後ろはレストランの塀だ。その暗がりの中からマイスの声が聞こえた。「おい、フミ!こっちこっち。まあ、入って」
といわれても、これはどちらかというと家に入るというより屋根の下に入るという感じだ。だいいち床はなくただの砂地ではないか。中に入ると早速マイスのおじいさんを紹介された。
マイスの家はたしかにレストランの前だった。いや、むしろこれはレストランの「庭先」だ。世界中あちこち訪ねたがイタリアンレストランの庭先で生活してる一家を見たのはこの一度きりだ。


やがてアルファが来た。ほかの知人たちが次々に訪れて話し込んでは去っていく。アルファのラジオは節約の甲斐もなく、今はほとんど聞こえない。「おいフミ、電池もってないか?」そう聞かれたが、あいにく単三電池を2本常に持ち歩いているような習慣は僕にはなかった。
アルファのラジオから音が消えると、もうあとは寝ぼけた動物の鳴き声と波の音だけ。僕はウォロフ語で客人たちと言葉を交わせるわけでもなく沈黙が流れがちだったが、あまり苦にはならなかった。セネガルに来てからというもの沈黙は僕の最愛の友となった。


マイスが1杯目のお茶をポットに入れて沸かしている。客人をもてなすお茶は3杯というのが作法だ。お茶は砂糖をたくさん入れて煮出すミントティーでそれを小さなグラスについで飲む。普通1杯飲んでそれほど間をおかずに2杯目、3杯目と続いて行くのだがこの日は少しばかり様子が違った。2杯目がなかなか出てこない。結局、1時間半後に2杯目が出てきた。「ちょっとペースが遅いのではないか」僕はそう思った。
と、そのころから僕の体に異変が起こった。胃袋のあたりがムズムズする。まるで腹の中で大きな虫が蠢いているようで、すごくイヤな感じだ。そして吐き気。「うう、な、なんだこれ」そう思ってマイスの小屋を飛び出す。外は風が出てきて満天の星空が見える。夜風に当たると少しだけ楽になり僕は再び茶の席に戻った。

しかし、それはほんの慰め、その後は脂汗が出てきてみんなと何を話したかも憶えていない。ただ、マイスが客に「おいおい、遅いぞマイス、もっとさっさとお茶を入れろ」といわれていたのだけは覚えている。そうだ、やはりこのお茶のペースはあまりに遅すぎるのだ。ああ、しかし辛い。気持ち悪いぃ。もっと早くお茶をつくってくれよマイス!早く3杯飲んでホテルに帰りたいんだ。僕は心の中で懇願した。


結局、最後のお茶は夜中の12時に差し出された。9時から飲み始めてグラス3杯のお茶に3時間とは・・・ しかも、今僕は3時間かけて飲んだお茶を30秒で吐けるほど気持ちが悪いのだ。
3杯目のお茶を飲むとすぐに礼を言ってホテルに帰ることにした。帰り際マイスが、明日周辺の村々を案内すると申し出たが断った。彼はちょっとがっかりしていたが、今の体調を考えると翌日はホテルでゆっくりしたい、そう思ったからだ。しかし、僕がそのとき想像した自分の体調は「ホテルで休めば治るというレベル」であって、その後あれほど苦しむことになろうとは予想だにしなかったのである。

2009年9月記



今日の一枚
”ディアラオの全景” セネガル・トゥバブ・ディアラオ 2002年




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