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夏といえば野外ジャズフェスだった その2


そんなわけだから、1991年に渡米したジャズ好きな僕にとってNYはまさに天国のようなところだった。社会人になってからは高いチャージを払って南青山辺りのジャズクラブに行っていたのだ。その何分の一という料金で演奏が聴ける街が悪いところであるはずがない。すでにヒップホップの先駆けのような動きは起こっていて若者たちはクラブに通っていた。でも、僕はあいかわらずジャズクラブに通っていた(笑)さらに、NYは街のいたるところにストリートミュージシャンがいて中々「濃い」演奏をしていた。6月にはNYジャズフェスティバルというのが開かれ、街のいたるところの会場で有料、無料のコンサートが催された。一方で悲しい出来事もあった。マイルス・デイビス死去のニュースを僕がハーレムの友人宅で知ったのは1991年の秋のことだ。


ジャズ・ミュージシャンのポートレイトを撮る写真家ジミー・カッツ氏と出会ったのはその頃。僕が当時通っていた国際写真センターの「心理学的ポートレイト」というワークショップで一緒になった。まだ、彼はテレマークスキーのコマーシャル写真を撮っていて、その傍らでライフワークにすべくジャズミュージシャンのポートレイトを撮っていた。

やがて僕はNYを離れた。しかし、その後もジミーには時々会った。彼は常に精力的。いつぞや再会した時はSOHOのジャズクラブで待ち合わせ、ゆっくり積もる話をするのかと思いきや、先日撮ったジャズミュージシャンの写真をライブの合間を待って本人たちに手渡し、「ハイ次!」という感じで店を出て今度は7thアヴェニュー・サウスのクラブに向かうという、そんな慌しさだった。店員の制止も押し切り演奏後にミュージシャンに駆け寄りプリントを手渡すジミーの姿は半ば強引とさえ思ったが、手渡されたミュージシャンたちの嬉しそうな顔は今でもはっきり覚えている。

数年後、ジミーが奥様のディナさんと来日した。新宿のギャラリーで個展を開いたのだ。ジャズミュージシャンの作品展だったので、テレビやらFMやらに引っ張りだこ。結局、ゆっくり話すこともできなかった。しかし、奥様と二人三脚で撮るジャズの写真作品が何となく結実しつつあるという感じがした。

その後、僕はアメリカとおさらばした(笑)ご存知のように私とアメリカとのコネクションはすべて1997年でストップしている。けれども、世の中は便利になりインターネットで同氏のサイトを見れる時代になった。「ソルト・ドリーム」という写真集を出し、最近、僕はジミーが「JAZZ KATZ」という写真集を出したことを知った。ライフワークともいえる彼のポートレイト作品がついに写真集として世に出た。なんだか僕も嬉しくなってくる。ウィントン・マルサリス、ソニー・ロリンズ、トニー・ベネット、レイ・チャールズ、スティング・・・そういったミュージシャンたちのポートレイトを見ていると、百戦錬磨の肖像写真家ジミー・カッツがなぜあの時自分と同じ「心理学的ポートレイト」というワークショップに参加していたのか不思議だ。

そういえば、写真集の発売にあたってジミーは「なぜ自分がジャズに興味をもったのか?」について語っていた。そのきっかけは「若い頃にNYのリンカーンセンターのホールでジャズを聴いたこと」だそうだ。どんな音楽であれ人に大きな影響を与える瞬間というものがあるということだろう。それがジミーの場合はリンカーンセンターのコンサートであり、僕の場合は「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」というわけだ。


さて、何の話から始めたのだろう?いつものように話がかなり横に流れてしまった(笑)
久しぶりに夏の夜空の下ジャズの音楽に酔いしれたくなった。どうだろう日本でもそろそろ大規模なジャズフェスティバルがひとつふたつ復活してもよいのではないだろうか。同じような願いを持つジャズファンも沢山いるような気がする。
なんと、結論はこんな単純なことであった(笑)

2009年7月記



今日の一枚
”コード ” アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク 1992年




fumikatz osada photographie