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チョルテンの周囲をまわる人々


チベット仏教で最も尊ばれている礼拝のしかたは「五体投地」だそうだ。巡礼者が道中、合掌をした後に地面に伏して両膝、両肘、最後に額を地面につけてちょうど身の丈分だけ巡礼地に向けて進んでいく、という光景をテレビで見たことがある。

中国甘粛省南部のチベット文化圏に足を踏み入れることになった時、僕は密かに期待した。あの五体投地で進む巡礼者を実際に見ることができるのではないか?と。しかし、残念ながらそのチャンスには恵まれなかった。「見世物じゃないよ」って?いやいや、ごもっとも。
けれども、その「五体投地」はお寺のチョルテン(仏塔)で見ることができた。ちなみに、こちらはその場に静止して行うもの。先ほど話したようにテレビの映像が頭の中にインプットされているからその姿に驚くことはなかったが、 全身全霊をこめて祈りをささげる人たちにはある種近寄りがたい迫力を感じた。


さて、五体投地もさることながら、僕が同じくらい強く印象付けられた光景がある。それはチョルテンの周りをぐるぐると回っている参拝者たちの姿だ。五体投地の「動」の迫力に対し、こちらは「静」なる神々しさとでも言おうか。

付け焼刃的なチベット仏教の知識をもっともらしく書き連ねるのは気が引けるので、実際に見たままを書こう。参拝者はまずチョルテンの正面で額を塔の壁につける。その後、仏塔の周りをまわり始めるのだった。 その巡拝の足取りは、強い意志に支えられて颯爽とというものではなくよたよたと。例えは悪いが、まるで魂の抜け殻のように真言をぶつぶつと口の中で唱えながら、数珠を片手に時計回りにまわるのだった。 一般的に仏教では右回りに3回まわるものらしいが、もっとまわっているようにも見える。なにしろ、次から次へと参拝者が環の中に入ってくるからよくわからなくなる。しかも気がつくと前の信者はもういなくなっていたりする。

そう、よたよたとチョルテンの周りをまわっていた信者は、あるとき「すっ」と環から離れて行くのだった。抜け出る場所は決まっていて、みな草の中の小道へと消えて行く。おそらくお寺の本堂の方に向かうのだろう。 それはまた、人が天に召さて行く瞬間のようにも思えた。


2008年10月記



今日の一枚
” 離環 ” 中国・甘粛省合作 2008年


 サンチアゴへの道  青い果実




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