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新宿育ち、松戸育ち


セネガルのダカール郊外、アフリカンミュージックが聴けるという野外クラブに連れて来てもらった。ところが、ステージ上の演奏はいつになってもサルサバンド。話が違うではないか。聞き間違えたのだろうか?ユッスー・ンドゥールはいつ登場するのだろうか?


部屋を借りている家の末っ子“DJバプス”と僕は、もう2時間も酒を飲みながらこのセネガル産サルサを聴いている。後から合流すると言っていた仲間たちは一向に現れる気配がない。
ここに入るとすぐにDJバプスはウエイターに隣接するホテルの部屋を案内させた。あたかも「カワイイ女の子がいたら部屋を借りるから、そのときは支払いよろしく」というように実にわざとらしく、僕の前で値段を尋ねたりした。彼は酒がなくなるたびに僕のところに来て「おごってくれ」とせがんだ。そして今、DJバプスは女を口説きにかかっている。彼の作戦は順調に進んでいるようだ。このままいったらヤツの思うツボだ。

そんなことを考えつつカウンターで飲んでいると、隣の男が僕に耳打ちした。「あの白いスーツの男は日本に住んでいたことがあるんだ。日本語を話すよ」見ると白いスーツで固めた男がナイトドレスの女性を伴って店に入ってきた。それにしてもハデだな。ポール牧みたいだ。お願いすれば「指パッチン」をやってくれそうだ。

他の客たちと挨拶を交わしながら、ポール牧は泳ぐようにこちらに近づいてきた。僕の顔を見るや否や日本語で「ニホンジン?ナーニシテルノコンナトコロデ」と挨拶してきた。ダカールの中心部から10km、確かに「こんなところ」ではあるが、初対面の相手に「ナーニシテルノコンナトコロデ」と挨拶されたのは初めてだ。しかし、このポール牧、意外に流暢な日本語を話すので僕は驚いた。日本のどこに住んでいたのかと尋ねると、彼は「シンジュクー」とやけに元気よく答える。彼の背後に一瞬、歌舞伎町のネオンが輝いた。

セネガル、特にダカールではバブルのころ日本で暮らしていたという人に時々出会った。市場の雑穀屋で働くソマレさんもそのひとり。ポール牧とは対照的に地味で真面目だ。唯一の共通点は日本語を流暢に話すというところ。ソマレさんは小さな店の中で一日中忙しく客の相手をしていたが「うちはこの近くだから夕ご飯でも食べに来てください」と誘ってくれた。「ソマレさんは日本ではどこに住んでいたの?」と訊ねた時に「松戸です」と丁寧に答えたのがなぜか印象的だ。

土地は人を育てるのだろうか。ポール牧とソマレさん、住む場所によって全く違った「日本の影響」を受けてセネガルに帰ってきているところが面白い。しかしその一方で、ふたりに「日本観」のようなものを尋ねたなら、どちらからもわりと核心をついた「冷静な分析結果」が返ってくるような気がした。


おや、DJバプスが女を連れてこちらに来た。そろそろ逃げたほうがよさそうだ。


2006年7月記



今日の一枚
”ポートレイト ” セネガル・ダカール 2002年


重慶大廈経由メインランド行き その2




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