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自分であることの証 その2


オランダ・ハーグ。その閑静な住宅街を重い荷物を持ってとぼとぼと歩く。空は今にも泣き出しそうで風が強い。かなり探し回ってようやく通りの端に宿らしきものを見つけた。極めて消極的に「空き部屋」という札が下がっている。古ぼけた白い木の扉の前に立って僕は呼び鈴を押す。返事はない。諦めかけて3度目のベルを鳴らした時に扉が開いた。中から女が顔を出す。歳は30代半ばという感じで痩せこけている。髪の毛はボサボサ、眼はうつろで、目の下には隈ができていた。見てすぐに「正気ではないな」と感じたが、案の定家の中にはマリファナの臭いが充満していた。僕は少し悩んだが、部屋をとることにした。とにかく、もうこれ以上は歩きたくない。


女が部屋に案内してくれた。「盗難に遭ったから身分を証明できるものが無いんだ。宿代前払いで許してくれないか?」とたずねると、彼女は「盗難に遭った」という事実には全く関心を示さず、「金」と手を出して早速宿代を催促してきた。僕が手のひらにお金を乗せると、それを素早くポケットにしまい再び手を出す。「チップを頂戴」「えっ?」僕は思わず聞き直してしまった。今、ここでチップをあげなければならない理由が見当たらない。「なぜ、アンタにチップを払う必要があるんだい?」と聞くと、彼女は哀れみを請うような表情になって突然泣き出した。「お願い。チップをちょうだい」「払わない。だったらさっきの金を返してくれ。ここには泊まらない」と僕が言うと彼女は「わかったわ、その代わり明日の朝ギルダー札をカーペットの下に忍ばせておいて」と部屋の隅のカーペットをめくって見せた。「ダンナに見つかると全部持っていかれちゃうのよ」払うつもりはなかったが、面倒くさくなって「OK、そうするよ」と返事をした。「ありがとう」彼女はマリファナの臭いのする唇で僕の頬にキスをした。


僕はベッドに横になった。パスポートの再発給、警察への盗難届け、航空券再発行の交渉・・・明日からやらなくてはならないことが山積みだ。すると、今度は無用心だった自分に対して無性に腹が立ってきた。「そうだ、これはきっと夢なのだ。とにかく眠ってみよう。眼が覚めたときには現実に戻っているはずだ」僕は自分にそう言い聞かせ、頭までシーツを被って眠った。どのくらい眠っただろうか。僕はざわざわと窓をたたく街路樹の葉の音で眼が覚めた。残念ながら眼が覚めても世界は何も変わっていなかった。試しに自分の頬をつねってみた。「痛いっ」どうやらこの「ハードな世界」は夢ではなさそうだ。時計を見ると午後8時。外はまだ明るい。昼間が極端に長いというのは思いのほか「きつい」ものだ。夜の闇さえあれば嫌な事は少しだけ消し去られるのに。


朝から何も口にしていないことに気がつき。埠頭の小さなダイナーに入って食事をした。セルフサービスのカウンターでパンにニシンの酢漬けを挟んでもらった。テーブルについて窓の外を見ると荒れ狂う北海と灰色の空が一望できた。波しぶきが雨と共に窓をたたく。「これが夏の景色だろうか」と疑うような荒涼とした風景。「このまま、あの海に入れば、少なくとも今より楽になれるかもしれない」僕は本気でそんなことを考えた。正面のテーブルには幸せそうな家族連れが座っている。5歳くらいの子供が僕の方を指差して両親に何か言っている。「あのひと、生の魚をパンに挟んで食べているよ」そう聞こえた。たしかに窓ガラスに映った僕のサンドウィッチはグロテスクだ。こういった食べ方は普通しないのだろうか?酢漬けのニシンは魚の原型を残していて、まるで北海の波頭のように鈍く銀色に輝いていた。


嵐のような風は収まることを知らない。鉛色の空の下、丘の上に立つ白亜の住宅の国旗が引きちぎられんばかりにはためいている。低い雲が恐ろしい速さで頭上を流れる。
ダイナーからの帰り道、ショートパンツのポケットに手を突っ込んで肩をすくめて歩いていると、僕は不思議な気持ちになった。この浮遊感は何だろう。今、僕は「誰」でもないのだ。自分を証明するものはひとつもない。世界からポッと浮かび上がってしまったのだ。僕はまず言い様のない不安を感じ、その後で束縛から解き放たれたような不思議な開放感を感じた。


2006年6月記



今日の一枚
” Egg Cell ” アメリカ・ニューヨーク州・スタッテンアイランド 1995年




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