le poissonrouge cafe








東京は遥か遠く


GPSに従って街に着いたはずなのに街がなくなっていた。こんな経験はかつてしたこともないし、こんな寂寥感も味わったことがない。東北の津波の被災地を訪ねた私は、それを一度ならず何度も経験した。

2011年3月11日の大地震とそれに伴って起こった津波は東日本の太平洋岸およそ400kmに渡って壊滅的な被害を与えた。東松島、石巻、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌といった被災地を震災から1年経ってようやく訪ねることができた。
あの大地震は私たち東日本に住む人間には大きな心の傷になった。震災以前の私たちと以後の私たちは明らかに違う。津波の被災地を実際に訪れるとその爪あとは未だ生々しくて、震災は被災地の住民の人たちの心にもっともっと大きな傷を残したに違いない。以前、私はここで悲劇と喜劇について触れたが、これを「悲劇」と呼ばずして何と呼べばよいのか。

しかし、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。生きてゆくことは大変なことで、世の中というのは私たち生き残っている人間を優先してまわっていかなければならないからだ。








「被災地の復興が遅れているのは瓦礫のせいだ」こういうことがマスコミで大々的に報道され始めたのはいつからだろうか?政府はその処理に関して地方自治体に協力を呼びかけた。けれども、実際に現地に行き自分の目で見てみるとこの言葉にさまざまな疑問がわいてくる。
まず「本当に復興が遅れているのか?」ということだ。マグニチュード9の地震によって大津波が起こり町々がほぼ壊滅状態になったというのに、わずか1年でいったいどれほど復興できるというのだ。私は復興のすべてが遅れているとは思わなかった。ただ、進んでいる部分と殆どはかどっていない部分の差が非常に大きいと感じた。

進んでいるのは例えば道路などのインフラ、仮設住宅の建設と瓦礫の集積だ。実際に現地を訪れたことのある人ならば瓦礫の処理が滞り復興を妨げているとは、ましてやその瓦礫を過積載のトラックに積んで道路を壊しながら全国に分配すべきだ、などとは考えないであろう。沖縄にまで船で運んで燃やす?いったいそれは何の「契りの儀式」であろうか。それに使われる公費はいったい誰の手に落ちるのだろうか。








なるほど、初めて被災地に入ると山積みされた瓦礫の量にまず驚く。しかし、考えてみれば当たり前だ。街がすっぽり津波に飲み込まれてしまったのだから、その瓦礫の量も推して知るべしである。そして、カビのような瓦礫の匂いはどの被災地に行ってもまるで影法師のように私の後をつけてくる。
ところが、政府やマスコミの話を聞くと、なんとなく、被災地全体が瓦礫に覆われていてそれによって復興が遅れているのだ、という錯覚をおこす。けれども、実際には瓦礫は町はずれに、海岸線に、あるいは街の一角に集積されている。つまり瓦礫は大きな山になって片付いている。

それではなぜ「瓦礫」だけがひとり歩きしていくのか?それは映像メディアのネガティブな特性に起因しているのかもしれない。瓦礫や壊れた家屋の絵というのは受け手に非常に強い印象を与えるからだ。嘘偽りでないかぎり映像がどこの部分を切り取ろうと自由だし間違いではない。しかし、メディアがそれを文章なり言葉なりできちんと補ってあげないと全体像が伝わらない。何が本当に問題になっているのかがわからなくなる。シンボルと本質は全く違うのが普通だ。

一方、首相の瓦礫広域処理の大号令のもと、地方自治体の首長が現地を訪れたにも関わらず「やはり瓦礫だ」と感じるのはなぜか?おそらくトップダウン方式で言われた瓦礫のことしか彼らの頭にないからだろう。現地に出向いて「瓦礫のほうはどうですか?」と訊ねる。それは被災地の首長だって「大丈夫です」とは言わないであろう。結局、瓦礫処理が最優先課題だということになる。

さて、あれだけ大騒ぎした瓦礫問題なのに最近ではめっきりトーンが下がった。政治家は議会での自分の保身に忙しく、マスコミは新たなゴシップを追いかけてどこかへ行ってしまった。







実はメディアに出てくる瓦礫の山の周りには広大な更地が広がっている。そして、はるか彼方には大津波が乗り越えて来た防波堤や水門がまるで悪魔の口のようにぽっかりと口を開けている。壊れた防波堤には土嚢が積み上げられ、水門はまだ修復されていない。あまりにも無防備で「もし、再び大きな津波に襲われたら・・・」と考えるとなんだか不安になる。被災地では工事の人たちがたくさん働いているのに。復旧させなければならないのは、まずこの堤防ではないだろうか。

次の課題は街の再建計画だろう。瓦礫は殆ど集積されている。しかし、その一方で街は再建の兆しさえ見えない。三陸のほとんどの街では建物の土台がまるで古代遺跡のように残るばかり。その更地の中に、わずかに数件プレハブのコインランドリーやガソリンスタンド、ささやかな「復興商店街」が建ち仮営業を行っているという状況だ。
どうして街の復興は進まないのか?と考えてみた。おそらく、どういう風に街を再建していくかの青写真が決まっていないからだ。「高台移転」などという言葉がこれまた独り歩きしているが、果たして高台移転は住民の総意だろうか?国や行政が勝手に謳っているのならずいぶん乱暴な話だ。
被災地のお年寄りは私にこう語った。「高台に引っ越そうにも、年寄りには不便すぎて生活できない」もし、今回のような津波を想定して高台移転が最善の策だとすれば、島国・地震国の日本の海辺の街はすべて高台移転の対象となろう。







となれば、津波の被災地の住民たちが自らいくつかの選択肢の中から決断しなければならない。高台移転だけではなく発想を転換すれば、今回のような災害が起こったときに避難体制がきちんと確率されている街を作るという選択肢もあるだろう。高台に向かって道を広くまっすぐ取るのか、何がしかの救命用巨大フロートを設置するのか、具体的にどんな方法があるのかは私たち素人には想像もつかないけれど・・・もちろん、「もうそこには新たに街を作らなくても良い」というのもひとつの選択になりそうだ。他方、塩に侵された農地はどうするのか?漁業は?

それらはすべて「専門家」と住民との話し合いで決定されるべきであり、一日も早く手をつけなければいけないことだろう。そうでないと住民たちはいつまでも不安なままだ。先行きどうなるかわからない街に誰が家や店を建てようか。復興が遅れているとしたらそれは瓦礫のせいではなく指針が決まらないからだ。
山積みの瓦礫の焼却は新しい街の焼却場で燃やしても良いし、少しずつ近隣の市町村に協力をお願いしてもよいではないか。少なくともそれは一刻を争う様な大問題ではない。

街の再建は青写真ができてもそこからが長い道のりかもしれない。例えば、宮城県東松島市の場合は、多くの家々が半壊のままなんとか残っていた。家々の壁には日付と「取り壊し不可」のスプレー文字が。これらの家々の主は自宅が取り壊されないように意思表示をしているのだろう。つまり、家屋が修復可能で住民が戻って来る場所では全くゼロから街を作り直すというわけにはいかない。かといって、震災以前と全く同じにしたのでは教訓から何も学ばなかったことになる。そこにジレンマがある。
一方、三陸の多くの町は壊滅状態である。しかし、そこには家々の土台が残り、土地の一区画一区画に所有者がいるのだということを思い起こさせる。街を作り直すのであれば地権者との話し合いも行われなければならないが、その中には不幸にも津波の犠牲になってしまった人もいるだろう。







学校が統合されても、ご近所さんと仮設住宅で離れ離れになっても、街が仮設商店街になってしまっても、被災地の人たちはなんとか普段の生活を取り戻そうとしている。健気にも明るく元気だった。
人間の大きな悲しみを忘れさせてくれるのは実は同情や励ましの言葉ではない。それは新しい仕事をはじめること、安定した生活の場を持つことだ。政府や地方自治体がアシストすべきはそこに尽きるのではないか。
生活が困窮したときに「同情されお金を恵んでもらうこと」と「仕事をもらえること」、どちらが人間の尊厳を保つことになるか考えてみればいい。そう、前者は人間の尊厳を奪ってゆく。残念ながら日本の政治は今、完全に前者ベースで進んでいる。

復興税などというわけの解らないくくりや、国に言われて幾ばくかの瓦礫を燃やすよりは「この医療施設は埼玉県と愛知県と長崎県の経済援助によって建設されました」という看板を堂々と被災地の真新しい町の病院の前に立てたほうがどれほど気持ちがよいだろう。どれほど深い絆ができるだろう。世界を見渡してみても「支援」というのは普通そういうものだ。今後は寄付金にきちんと宛名を書いておいたほうがよいかもしれない。
そこで、震災直後に自分たちの寄付金が果たして有効に使われるのか心配していた海外の友人たちの言葉を思い出す。この写真で彼らにどういう風に説明しようか・・・正直、戸惑っている。







わずか4日間であったが、私は東北の被災地でこれだけのことを感じた。パソコンやテレビの前で自分が受け取っていた狭い情報を考えると、やはり自分の目で見ることは重要なのだと痛感した。
そしてもうひとつ、私が被災地で実感したのは「東京は遠いんだなぁ」ということだった。


2012年5月記


今日の写真
”小学校体育館” 日本・岩手県釜石市唐丹 2012年
”仮設住宅の桜” 日本・岩手県釜石市 2012年
”海岸線の瓦礫” 日本・岩手県釜石市唐丹 2012年
”壊れた防波堤” 日本・宮城県南三陸町 2012年
”水門と街” 日本・岩手県大槌町 2012年
”半壊した住宅” 日本・宮城県東松島市 2012年
”「おおふなと夢商店街」の朝” 日本・岩手県大船渡市 2012年
”通学路” 日本・宮城県気仙沼市 2012年








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