le poissonrouge cafe








マイ・フーリッシュ・ライフ


我々日本人は悲劇という言葉が好きなようだ。
例えば「ドーハの悲劇」なんていうのがある。サッカーワールドカップ出場を逃した日本代表の試合のことをそう呼ぶらしい。カタールのドーハで行われた予選での出来事だから「ドーハの悲劇」だそうだ。
しかし、本当の「悲劇」、例えば歴史上の悲劇というのは神をも恨むような不慮の災難、運命のいたずらであって、おそらく誰の目にも悲劇として映るに違いない。「ドーハの悲劇」のように半分美談のように語り継がれる「悲劇」は本当は「喜劇」なのかもしれない。すなわち、それは過程をないがしろにしたことによる「単なる失敗」にセンチメンタルな主観が入っただけであって、客観的に見ればそれを「悲劇」と呼んで感傷的になる行為はむしろ「喜劇」として映るのではないだろうか。


実は僕もひとつ「悲劇」を持っている。自分で勝手に「ポートランドの悲劇」と名前をつけた。米オレゴン州ポートランドの空港で起こった出来事だからだ。1997年4月僕はアメリカに行った。それまで何度も訪れ、暮らしたこともあるアメリカ。しかし、その渡米は少しだけ意味合いが違っていた。僕の旅行カバンの中には履歴書や写真作品のポートフォリオやらが入っていたからだ。それを持って僕は出版社や新聞社をまわろうと思っていた。つまり、僕は「日本におさらばしよう」という覚悟のもとに旅立ったのだ。ごく親しい友人にだけ話して自宅には書き置きを残した。

十代のころから僕は非常に楽観的な人生計画を立てていた。(いや、それは「計画」と呼ぶにはあまりにも幼稚で漠然としていたのだが・・・)まず、人生を三等分する。日本は25年くらいでとっとと切り上げて、その後の25年をアメリカで過ごし、50歳になったら日本でもアメリカでもない、どこか知らない国で写真で生計をたてながら一生を終えようというものだ。

「まず、アメリカへ」というのはひと昔前の典型的な若者の志向で、僕もご多分に漏れずその中のひとりだった。大学生の時にニューヨークを訪れ、「数年間サラリーマンをやったら写真を学ぶ学生としてこの街に戻ってこよう」と心に誓った。就職して日々の仕事に追われながらも僕は自分の青写真に基づいて着々と準備をしていた。インターネットもまだなかった時代で、勤め先だった新聞社の仮眠室の二段ベッドで僕は黙々と入学願書を作った。

2年半後に退職願を書いてニューヨーク市立大学と国際写真センターに留学した。26歳のことだ。まさにそこまでは漠然と立てた僕の人生設計通り。ただ、思い描いた理想と違ったのは、「人は地球上のどこにでも勝手に住めるわけではなかった」ということだ。査証が切れれば帰国しなけばならない。それでも、当時は何とか一歩ずつでも自分の思い描いた青写真に近づこうとしていた。写真センターのインターンをやろうと思い、それも実行に移した。半年をニューヨークで過ごし帰国、再び渡米・・・と気がついてみたら、20代後半は日本とアメリカの生活が半分半分くらいになっていた。若いから物事が思い通りに進むと天狗になる。「次は向こうに根を下ろすゾ」僕は当然のようにそう決意した。


そして予定通り、1997年の春、僕はオレゴン州ポートランドの空港に降り立ったのだ。ポートランドは自分の意思で選んだ入国地ではなく利用した航空会社のハブ空港だった。飛行機を降りてパスポートコントロールのラインに並ぶ。いつものようにブースの前には長蛇の列が出来ている。「NEXT!」と呼ばれ審査官の前に立つ。「滞在目的と滞在日数は?」女性の審査官に尋ねられた。僕は2ヶ月滞在し作品を売り込む。それから、いくつかの写真の講義を受けるかもしれないと答えた。

査証免除の期間が3ヶ月。それまではその問答で咎められたことは一度もなかった。けれども、ポートランドの審査官の態度は明らかに今までとは違っていた。僕はそのまま入国管理局の部屋に連れて行かれ、カバンの中身を隅から隅まで調べられた。
入管局の検査官が英文の履歴書と写真のポートフォリオをつまみ上げて上司らしき人間に見せた。
「ボス、見てください」部屋で一番偉そうな白人の男はそれにさっと目を通し、厳しい口調で言った。「キミは不法に仕事を探しに来たのではないか?この荷物はつまりそういう意味だろう」そしてこう続けた。「どういう事情があるかわからないが、合衆国にキミを入れるわけにはいかない。直ちに日本に帰りたまえ」

いつも通っていた門が突然「ピシャリ」と閉められた。恥も外聞も無く必死で事情を説明する僕に対して男はこう言った。「帰れといったら帰れ!キミを入国させるのもさせないも、すべての権限はこの私にある。私はキミをアメリカ合衆国に入国させない。乗ってきた機体が1時間後に東京に折り返す。それに乗りなさい」彼は部下に帰国便の変更手続きをさせた。全身の力が抜けその場にへたり込んだ。それから僅か数分の間に僕は3年分ぐらいのことを考えたような気がする。


「タバコを吸わせてほしい」と僕は部屋にいる検査官に言った。「悪いが、オレゴン州では喫煙所を除いて全面禁煙なんだ」と彼は少しだけ申し訳なさそうに答え、「『アメリカ側』の待合室には喫煙所があるんだが、いかんせんキミは・・・」そう言いかけて語尾を濁した。それを聞いてさっきの白人のボスが遠くからこう叫んだ「おい、タバコくらい吸わせてやれ!」検査官は職員用通路を通って僕をアメリカ側の喫煙所に案内してくれた。喫煙所はガラスで囲まれていた。椅子に腰掛けると、僕はタバコを咥えて突然起こった出来事を頭の中で必死に整理しようとした。ガラスの外を見るとさっきの検査官がこちらを見張っている。おそらく、彼は僕がそのまま逃げ出さないかを心配しているのだろう。しかし、僕にはそんな気力もない。

吸い終わるのを見ると検査官が扉を開けた。「不便をかけてすまない」そう声をかけられた。僕がアメリカで最後にしたこと、それは入管局員に見張られながらガラス張りの部屋の中でタバコを1本ふかしたことだ。


「復路の搭乗日時を変更した。すぐに乗りなさい」部屋に戻るとボスに切符を手渡された。スーツ姿の2人の男に挟まれて僕は搭乗口に連れて行かれた。大統領の護衛のように男は耳にイヤホンをつけていた。しかし、連れて行かれる僕は大統領というよりむしろ犯罪者のようだ。まだ閉まっている搭乗ゲートを抜けるとき、並んでいる客たちが「何だ?」という感じでこちらを覗き込む。機内に入ると2人のスーツはパーサーらしき男に耳打ちして、僕が乗務員の目がゆきとどく最後部の座席に着いたことを確認すると機外に去っていった。こうして僕は、さっき降りたばかりの飛行機の座席に再び着いたのだった。

搭乗が開始され、大きな笑い声を上げながら日本人観光客の一群が乗り込んできた。僕は頭からすっぽり毛布をかぶった。飛行機が滑走路を滑り始めやがて離陸した。毛布の中から目だけ出すようにして僕はマウント・フッドの雪の峰を見た。涙が滲んだ。


ニューヨークの友の顔がひとつひとつ遠ざかってゆく。辛いことを忘れるには夜の暗がりの優しさに包まれて眠るのが一番だ。しかし、そういうときに限って残酷までに日が長い。太平洋上を西に飛ぶそのルートでは、結局一度も太陽は沈まなかった。さっきの観光客がトイレに来たついでに僕の後ろにある非常扉の前で話し込んでいく。楽しそうに関西弁でディズニーランドの話をしている。「飛行機の扉を開けてしまいたい」と僕はそんなバカなことを真剣に考えた。自分もろとも乗客たちを機外に吹き飛ばしてしまったらどんなにスッキリするだろうか。おそらく、「そんなバカなこと」を考える可能性があるから自分はこうして乗務員に見張られながら最後部の席に座らされているのだろう。
しかし、僕は飛行機の扉を開けることもなく、出された食事も口にせず座席でひたすら毛布に包まっていた。眠れないから、いろいろなことを考えた。もちろん、それは建設的な思考などではなく、ひとつひとつを消し去っていくという作業だった。そう、何もかも終わったのだ。若者の夢はあくまでも夢だったのだ。

結局、僕は西海岸を日帰りし、荷物をころがして帰国した。客観的に見ればなんとお粗末な「喜劇」だろうか。しかし、その後の人生の苦悩を考えると僕にはやはり悲劇としか呼べないのである。帰国して時間がたつにつれ、僕の中にはアメリカという国に対する憤りがふつふつと湧きあがってきた。赤坂の大使館に行き「入国審査におけるプライバシーの侵害」を訴えたりした。「自由の国」の大使館員はとりあえず聞くふりだけしてくれた。(実際に効果はあったようだ、その航空会社のポートランド線はその後廃止された、理由はあまりにも不当に入国拒否される日本人が多いためだ。日本の外務省からの物言いもついた)

アメリカンドリームなんてマスコミによって作られたイメージに過ぎない。アメリカ合衆国はたしかに移民で作られた国だが、既得権を得た米国市民たちは、新しい来訪者にたいして非常に冷たい。移民たちはアメリカ国民になった途端に向こう側の人になってしまうのだ。新参者は大抵煙たがられる、そう覚悟しておいた方がよい。アメリカは決して『自由の国』なんかじゃない。



帰国後、僕の30代は「無」だ。よく有名ミュージシャンが不遇だった時代の作品を「あれは廃盤にして欲しい」なんていうが、僕の30代は出来ればまるごと廃盤にしたい。僕はアメリカからも締め出され、日本の社会からもポッカリと浮いてしまった。

そういった人生の超低空飛行を僕はずっと「あの悲劇」のせいにしていた。すべてそこに責任転嫁してきた。多分、そう考えた方が楽だからだ。「すべてはあのポートランドの悲劇がいけないのだ」そう思いながら僕はアメリカと対極にある場所に好んで出かけては写真を撮るようになった。1998年、僕がまず向かったのはキューバだった。実際、キューバでは良い写真が撮れた。しかし、僕を強く突き動かしていたのは残念ながら新しい何かを見つけた「ポジティブなエネルギー」などではなく、アメリカに反発する負のエネルギーだったような気がする。少なくともそのころは。

しかし、地球上の様々な場所をめぐる僕の奇妙な冒険は単なる「アメリカへの反抗」ではないと言うことにやがて気づく。僕は「自分の居場所」を探しているのだ。僕の心の中で燻っているのは「自分の存在に対する不安」なのだ。それは「自分がどこの社会にも属せないのではないか」という焦燥感を伴う不安。「写真を撮るために命を授かった」という原始的な幻想を僕は子供のように信じてきた。しかし、その「幻想」が厳しい現実に直面する度にゆさゆさと揺さぶられるようになったのだ。


2001年9月11日。夜、TVニュースを見たらワールド・トレード・センターのツインタワーが燃えていた。2本の超高層ビルはその後跡形も無く崩壊した。「アメリカ政府が悲劇と呼ぶ『9.11』と私の悲劇の間に一体どれ程の差があろうか?」僕は今でもそう思っている。
けれども、その映像を見て最初に僕が感じたのは「悲しい」という気持ちだった。おそらく、かつて自分が住んでいた界隈が無惨にもその姿を変えてゆくことに対する悲しさだろう。時がたつにつれて、その「悲しさ」は「恐ろしさ」に変わった。それはテロに対する怖さなどではなく、自分がフィットできないでいる現実社会で起こっていることへの恐怖だ。あんな世界にいったいどうやって自分を同調させて行ったらよいのだろうか。そんなことを考えるようになった。


思い描いた人生の予定表から大きく外れて僕は今もなお日本で生活している。すべての原因は自分にある。きっと、「僕の悲劇」は他人にとっては「喜劇」なのだ。あの、入管局のボスは夕食の席で家族にこう話したろう「今日もバカな日本人が不法滞在目的で入国しようとしたよ。追い返してやったさ。ハハハ」と。
しかし、僕にとってそれは消しがたいトラウマになった。どこの国に行っても入国審査では手が震える。そして、今でも「ポートランドの空港に行けば、あの時僕が落っこちた時空の裂け目があって、見上げると青空が広がっているのではないか。そこをよじ登ったらまたもとの道に戻れるのではないか」そんな子供じみたことを考える。もし、あの時すんなりとアメリカに入国していたら、その後の僕の人生は違ったものになっていただろうか?
あるいはまた、僕が漂っている「運命の波」はもっと大きなものなのかもしれない。あれから9年と12ヵ月。それにしても長い年月がたってしまった。


2007年5月「9年と12ヶ月」より



私の目指すところは旅行写真家ではない。あくまでも肖像写真家でありフォトインタビューアーという分野だ。そういう肩書きはおそらくない。だから自分で作った。老いも若きも、一般人もセレブリティも・・・最終的には自分の仕事が「人間大百科」のようになればいいなと考えている。けれども、そういった自分の方向性について理解してくれる人に出会えないのが残念でならない。いったい写真家というのはこんなに孤独なものなのか。

一方、「ポートランドの悲劇」の方は、「自分が落っこちたポートランド」を起点に再びニューヨークまで上り詰める「ターンオーバー」を写真で綴るという構想を持っている。それを自分の人生のターンオーバーに重ねあわせる為には、私自身の人生もどこかで上昇に転じなければならない。私の愚かな人生はまるで安い映画の脚本のようだ。




今日の写真
”消え行く後姿” アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク 1995年
”ワールド・トレード・センター” アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク 1989年







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